投稿日: Apr 28, 2015 1:43:25 AM
昨年夏に黒人青年が警官に殺されて暴動となったセントルイス近郊のことがずっと尾を引いていて、まだ記憶に新しいのに、今度はボルチモアでまた揉めている。日本でも1960年代は釜ヶ崎や山谷で夏に暴動が起こることがあったが、その後はそんなことはすっかり忘れたかのような国になっている。アメリカは黒人差別というのが実質的にはなくならないので、宿命のように肌色の違い対立が避けられない。曽野綾子女子は別々に住めばよいというかもしれないが、それでは一つの社会にならない。アメリカの野球の球団は、黒人選手を何名入れるかについて、球団の補強とファンの心理のせめぎあいでよく議論していることが象徴的だ。
セントルイス近郊の件は射殺した警官が法廷で無罪になったがために尾を引いているのだが、人種対立が背景にある場合でも裁判は陪審員制で行われるために、警察はいつも自分が有利になる場所で裁判が行われるようにもっていく。裁判の場所によって白人と黒人の比率が異なるからで、警察が不利な場合には白人居住者が多い地区の事件にしてしまえばよい。つまり事件現場の所轄署のある場所でなくて、被害者や加害者の居住地というのが選択肢になって、多くの場合は白人警官はたいてい白人居住区に居るから、そこの陪審員が裁くことになる。
こうなると陪審員制度も判決結果を恣意的にコントロールできるという点でいい加減なものである。
こういう分母を何とでもできる多数決のシステムがあると、政治的な対立という点では有色人種の少数派には永遠に勝ち目はない。イスラエルの国会にもパレスチナ人の議員枠があるが、そもそもその範囲でしか議員を送り込めないので、永遠に少数派である。多数決の民主主義は、他に方法がないから仕方なくやっている面があって、理想的な方法でも何でもない。この多数決のほころびはいつも意識しておかなければならないだろう。
アメリカの人種問題では、公民権運動が座席などの人種分離を違憲としたことから始まっており、今年は公民権法制定から50年であるために、かえってこの50年間のアメリカ社会の変わらなさが印象付けられている。それも暴動の一因かもしれない。いわゆるベトナム戦争は1965年から始まったので、その時には公民権法があって、軍隊は白人も黒人も混ざって編成されたが、それ以前は黒人部隊というのがあった。(Jimi Hendrix が兵役についた時点では黒人は黒人で集まっていたはずだ。そんな中で音楽仲間のつながりもできていた。)
アメリカで黒人が政治運動をしても全く不利なのに、なぜ公民権運動は10年ほどの戦いで社会の大きな転換を成し遂げたのだろうと長い間不思議に思っていた。それは白人と黒人の共通項としてのキリスト教というのが大きく影響していて、そのことはまた別の機会に書きたい。そういう要素が今でもアメリカの基盤にしっかりあるのかどうか疑問だが、オバマ大統領の登場などをみるといくらかは残っているように思える。
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