投稿日: Jun 20, 2014 1:25:35 AM
雑誌はセレンディピティなのか
Webで雑記事を拾い読みする日々が始まってから20年くらい経った。それ以前のパソコン通信では特定のフォーラムしか読みにいかない状態だったので、Web(当時はWWWと呼んでいた)のサーフィンは刺激的で、自分の接する世界が格段と広まった気がした。パソコン関連については日本で販売とかサポートされていないものでも輸入して使いこなせるようになった。それでサーバー関係は大変助かった。
またWebで日々新しい情報が得られるわけだが、とりわけ欧米の情報が格段に増えたことが色々な面で役に立った。幸い海外出張も時々あったので、その際に立ち寄る場所も増え、単なる知識とし得るものではなく、技術変革の奥にあるものの考え方の違いなども感じることがしばしばあった。
こういうことが起こると、日本国内のパソコン雑誌は2重の意味で沈没していく。まず国内の広告で成立していて、記事本体もそれらと関係しているということでは、技術革新を伝達するうえでも大変に歪なものとなってしまうことだ。実際の日本国内マーケットは海外のことなど気にしないユーザが大半ではあるものの、オピニオンリーダーやマニアやライターさんなどの意識が国際化してしまうと、ドメスティックな広告媒体としての雑誌とのシナジーは薄れていく。
またパソコン雑誌は付録にCD-ROMをつけていたが、これもWebなどネット利用の方が何でも直接ダウンロードできて便利である。雑誌の付録のCD-ROMを保管しておいてもOSなどの使用環境が変化したりアプリのバージョンなどがどんどん新しくなるので、結局ネットで確認しなければならず、パソコン雑誌は衰退していった。
これはパソコンに限らず多かれ少なかれ商業雑誌に共通することで、私も雑誌をしていた時はネットに載っていない記事を載せるように心がけて、何とか雑誌離れを食い止めたいと努力していた。しかしもう一つの課題があった。雑誌に数ページ必要な情報があっても、人々はそれだけでは買う気が無くなってしまったことだ。よく雑誌はセレンディピティであるといわれる。目次を眺めただけでは読もうとはしなかった記事でも、パラパラめくっているうちに目に留まって、読んだらためになったというのが雑誌の価値のひとつであった。だから数ページくらいは必須だと思える雑誌は買っていたのである。
しかし必須の情報はWebでピンポイントで探せば、雑誌程度の情報はたいてい得られるようになってしまった。そうすると雑誌をセレンディピティのためだけに買ってもらえるのかという問題になる。これはやはり無理であろう。日本の家庭の狭さとかを考えると雑誌をとらなくなってどれだけ部屋が片付いたかという時代に、深い意味もなく雑誌を持ち帰る人は少ないだろう。それは雑誌型フリーペーパーでもいえることで、いくらタダでもそれほどの人は持って帰らないのである。
これは情報を紙の束にすることの意味がそうとう失われてしまったことでもある。以前はこの紙の束自体が一つの小さな世界を形作っていた。それは編集側の意図するところであった。雑誌が同じ嗜好の人を束ねてコミュニティを形成することもあった。しかし今は紙媒体の編集側がそういったコミュニティや小さな世界を提示しなくても、自然発生的にネット上のコミュニティが生まれ、またネットの利用者もそれぞれが小さな世界という殻を自分で作るようになった。
ネットがすべてというわけではないが、ネットの方が充足度が高ければ、大勢は紙からネットに切り替わってしまう。現に生き残っている雑誌は少し気の利いたカタログであったり、スポーツ新聞の判型を変えたモノのようになってしまったところがあるように、変節の時代に入っている。いまさら紙媒体とネットのシナジーで云々というのはないのではないかと思う。