投稿日: Jun 21, 2013 2:9:34 AM
哀れな在特会
民族主義というのはどこにでもあり、しかも右も左も関係ないものである。国民が民族のアイデンティティを持つことも重要で、それは経済的な不遇を乗り切る力にもなる。際限の無い経済のグローバル化に歯止めをかけるのも民族のアイデンティティになるだろうと思う。TPPなどもそうだが海外から買ったほうが安いという経済的理由が最優先になるのは不自然で、生産と消費を合わせて固有文化がそこにあることをもっと理解しなければならない。
例えば農民が休耕することでお金をもらうとか、原発ができて漁民が魚をとって廃棄することで保証金をもらう、などをしていれば昔からの固有文化が廃れてしまうのは当然だ。その前に働いている人やそこに住んでいる人の尊厳が失われてしまう。それを国が進めているというのはどういうことかと多くの人が疑問に思っている。
だから金が第一で人の尊厳が失われることにもっと反発があってよいし、そこで何を第一にすべきかを模索する段階で民族主義的な指向がいろいろなところで出てきてもおかしくない。3.11大震災の復興に際しても、震災以前の状態に現状復帰をするのが第一か、将来の発展を考えて基盤を作るべきか、伝統的な生き方が出来るようにすべきか、など悩ましい議論が続いている。
こういった議論のおとしどころは、やはりそこに生まれ育って一生過ごせたことに感謝する、また子孫もここに住み続けて欲しいというような、人生を託せる場所にすることだろう。
しかし時として固有文化のアイデンティティは排他的な方向に働くことがあり、隣接する文化圏どうしがdisりあうというのは昔からあったし、そういう揶揄も固有文化の一部をなしていたりする。私は大阪の出身で京都の大学に通っていたが、両地がけなしあうのは夫婦喧嘩にも似てほほえましいくらいであった。固有文化のアイデンティティの表現として文化比較がいつもあるように思う。
こういう人々の特性に乗じて、ユーゴスラビアをバラバラにしてしまったような政治的な煽りが行われることがある。またナチズムというのも民族主義を捻じ曲げて政治に結びつけた典型で、お互いに排他的なゲルマン人の民族優位主義とユダヤ人の選民思想がぶつかり合ったもののように見える。
日本でも民族差別的な示威行為が目立つようになってきたが、戦前の日本民族の優位とかを継承しているものでもなく、日本民族も相手の民族のこともよく理解していない大変幼稚なもののように思える。過去の日本の民族主義とか右翼もちゃんと言論活動をしていて、そこに書かれていることは単なる聞きかじりではなく、自分の人生をかけて調べたり体験したりした厚みのある背景があって、たとえその主張に同意できない人とか左翼の人であっても議論する余地があったりしたが、最近聞こえてくるものは「おまえのカアちゃんデベソ」レベルのヘイトで、ネットで書き込まれる内容も見出しだけがコダマしているような、内容がさっぱり判らないものが多く、英語にして世界に発信するのは困難に思える。
もし世界に通用しないような主張ならば、一見政治的なことを言ってるように見えてもフーリガンと実質は変わらず、日本国内にも通用しないのである。街中をそれらが闊歩するようになったのは、日本を人の尊厳の空白時代にしてしまった、政治や役人のモラルハザードの結果のように思う。