投稿日: Sep 03, 2013 12:35:1 AM
メタな運動が必要
日曜日に近所の年金生活者=高齢者(私と似た世代)と一緒にメシを喰っていて、日本の善男善女とメディアの関係を改めてオソロシイものだと思ってしまった。話の内容は「ためしてガッテン」がどうのこうのという日常生活の話題なのだが、テレビで「何が効く!」といえば、翌日に店の棚からその商品が一時的に消えてしまうような、反射神経を刺激するメディアであることを、どう考えるのかである。
一方でマスコミ、特に広告表現に関しては禁止や規制がいっぱいできる。これもよく読めば理解できることが、反射的に行動する人には伝わらないから、表現そのものを規制せざるを得ない、というネジれた関係があるわけである。
昔よく週刊誌の中吊り広告に「扇情的な決めつけ見出し文字…ヵ?」というように、ちらっと見ただけの人が「…ヵ?」の部分に気づかないようにして、必ず誤解するような見出しがつけられることがあった。
今も広告表現はこの手のものは多く、健康食品と医薬品の区別をいくら議論したところで、薬が効かなかった人も健康食品は「…に効く!」と思って買わせようとしている。
だから広告規制をいくら行っても、何らかのすり抜ける表現方法はみつかるので、規制によって誤解を減らそうということは困難である。ではどういう手を打てばよいのか? 欧米流に考えると、遠回りではあるけれども、メディアリテラシーの向上をとつとつと積み重ねていくことしかないのだろう。それにしても日本の多くの生活者のマスコミ依存の脳を覚醒させるのは大変な仕事だ。メディアリテラシー向上というとカナダの例が有名だが、それはアメリカの文化的な影響を抑えるためのもので、カナダはカナダなりのアイデンティティを保つために必要なことであった。
日本の場合には、生活者がマスコミ依存から抜け出すとしても、その後いったいどのように価値判断すればよいのかが言えない。アメリカの場合はメディアリテラシーというのは「自己責任」と裏腹の関係にあり、表現は(割と)自由だけれども、判断するのはアナタという土俵があって、比較広告のような激烈な表現のぶつかり合いも許される。
これらのいろんな要素が部分部分で日本に入ってきて混在して居るので、メディアリテラシー向上を訴える側も歩調が合い難い。つまり情報を受け取る側にはなかなか手が出せず、禁止や規制をするのが精一杯というのが現状である。これはあまりにも寂しくはないか?