投稿日: Nov 29, 2013 1:42:44 AM
国家統制を回避するには
個人情報保護でも商品表示の偽装でも悪意のある行為は防止策が必要だが、それはすべてが法律やコンプライアンスの対象にしなければならないものかどうかは疑問である。日本ではコンプライアンス過剰になりがちで、それで企業のサービスや売上が制約されてしまうことも少なくない。これは欧米に比べてマイナスな点である。
国民全員が聖人君子になって社会から悪意をがなくなることはないが、少なくとも社会的な活動をする企業家や政治家やそれぞれの地域の諸活動のリーダなど、人を束ねる役割をする人に悪意があると、それに関連した人々が翻弄されて被害を受けることがあるので、社会の「ある層」からは何とか悪意を取り除く必要がある。
これはモラルとか宗教に関連した問題で、日本の問題は戦前の国家統制的なモラルが敗戦によって崩れたものの、戦後にアメリカ風のモラル輸入もうまくいかなかったことで、経済界も政治家もモラルハザードのリーダーを多く世に出してしまったことと関係している。バブルの崩壊もその一端で、無責任経営をしていた結果であった。
この無責任さから一転してその後はコンプライアンス過剰になってしまったのは、羹に懲りて膾を吹くのような感じで、実際にコンプライアンスでやっていることがムダなことは、次々馬脚を現していることからも明らかだ。
だからもっとコンプライアンスを強めなければならないのだろうか。そうなると益々社会は窮屈になり、自由な起業が困難になり、いろんな制度は硬直し、経済面でいえば雇用はしにくくなり、マイナス成長に輪がかかっていく。
つまりコンプライアンスという制度によりかかるのではなく、悪意をフィルタリングできるようなリーダーが社会に遍在するようになるのが望ましいことである。だから国民教育に教育勅語をもういちど引っぱりだすのは国家統制的なことになるのだが、現在で言えばまずは教育委員会のメンツが社会的な責任を果たせる人間で構成されるべきであり、そこにこそモラルの面での基準が必要であろう。
ところが公的な仕事に携わる人に必要なモラルの基準は日本のように宗教色が少ないところでは決め難い。アメリカなら神にしたがうというようなことがあって、これはカトリックでもプロテスタントでもイスラムでも同じなので、ほぼ大多数の意見になるのでよいが、日本はモラルとイデオロギーの混同がいつもあって、対立がおこりがちである。
企業によっては上層部にモラルハザードがあると成り立たない場合があり、トップはクリスチャンとか相当の敬虔な人が成るところもある。日銀も以前はそうだった。問題は官公庁とか相当する公的な組織であって、そこのモラルハザードの歯止めは全然ないように思え、それが無責任な運営を放置していることにもなっている。
日本でモラルやイデオロギーのことを感情的にならないで取り上げることはできないのだろうか?