投稿日: Oct 28, 2015 1:9:39 AM
「高知には…」といって生活の快適さをBlog発信して生活しておられる方が居るが、ネットという虚構の世界から金をもらいながら、自分はリア充にどっぷり浸っているわけで、そのことに何の疑問も持たないあなたは幸せだなあと思う。
実際に生活の視点さえ変えればリアルワールドで十分に充足していけることは、発展途上国でも国民がhappyと感じている割合が高い国があることからも明らかである。つまり「高知には…」と同様に、「台湾には…」、「フィリピンには…」、「ブータンには…」、というようにどこでも個人的には満足して暮らせるはずである。
「高知には…」のblogerさんは、単に私は東京とか都市には向きませんでしたと言っているだけだと思う。確かに都市にはいろいろと問題があるが、そこに人が住み続けていけば改善される可能性はある。逆にいくら自然条件がよくても人が住み続けなければ問題は改善されず、やはり過疎化は免れない。つまりその土地を愛するとかいう視点で、マイナス面は我慢してでも良くしていこうとする人々によってのみ、社会は良くすることができるのだろう。
都会の問題は大方が都市計画にある。つまり人工的な環境が何らかの欠陥を抱えている話である。記事『東京オリンピックという麻薬』では、高島平とか多摩ニュータウンその他大規模に造成した団地には、そこで生まれ育った人が成人しても戻ってこないので、団地が生活の場としての生態系を形成できないことを書いた。つまり団地は良い住環境に向けて成熟していくことはなく、滅びに向かって一方的で一直線に進行している。
ネットで地域情報を発信することも、地域社会を良くすることにつながっているはずだと思う人は居るだろうが、それは楽観的過ぎると思う。地産地消はもともと当たり前のことで、そういった社会的な循環を都市やその近郊でも取り入れていって、ブラジルから野菜を買うような社会的なオーバーヘッドを減らしていき、その土地ごとの素敵な暮らし方を作っていく努力が必要で、そこが従来の都市計画には欠けていた点であると思う。
すでに産直とかネットの個人売買など既存の経済の枠組みから外れる取引規模は年間それぞれ兆円のオーダーになっていて、それはもっと発展していくのだろうが、こういうネットのポテンシャルを使って、過去にはできなかったリア充な都市計画が考えられても良い時期だと思う。
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