投稿日: Nov 25, 2014 2:4:44 AM
人の考えを元に社会を変えようとしても、なかなか思うようには行かないで、しばらくすると元に戻ってしまう。フランス革命で王政を廃止してもナポレオンが皇帝になってしまうとか、ロシア革命のスターリンとか中国革命の毛沢東のように独裁者を産んでしまったのは、想定外だったはずだ。しかし長い目で見ると80年~100年も経つと反動とか歪とかも是正されて、まあまあ民主的な国家になる。フランス革命はその先輩であり、ソ連も80年ほどして解体してそれぞれが独立した。若い中国はまだ80歳になるには若干時間がかかる。日本も明治維新100年にして幾たびの戦争を経験した後に東京オリンピックで世界の人を迎えられるようになったといえる。
これらは、制度設計という点では専門家が合理的なものを検討して決めることはできても、そういう検討過程を人々に理解させることは困難で、人々は当面の不都合には目をつぶって我慢してでも新制度を軌道に乗せる、というようには協力はしてくれないからだ。こういった大衆のもつ文化的な慣性の大きさを考慮しない制度改革は失敗しがちだ。
しかし一方では、大衆の慣性におもねったように見せかけて、自分の企みに大衆を乗せてしまう政治家というのが選挙では票を集めてしまう。これはどこの国でも同じなのだろうが、「自分の企み」の多くは既存の諸制度を悪用していることであって、いわゆる既得権益のようなものだ。これに大衆を巻き込んで共犯にしてしまおうというものだ。
日本で土地バブルが起こった時には、日本人の持ち家率がそれなりに高く、地代の上昇は人々にとって受け入れやすいものであったので、その弊害を幾ら説明しても耳は貸してもらえなかった。その結果がバブル崩壊であったわけだし、今後もいろいろな政治の紆余曲折のツケが国民にまわってくることになる。
そうすると、民主主義を成立させるためには、国民がほっておいては耳を貸さない課題をどのように議論にのせるかというのがテーマになって、ほっておいても国民が気にしていることは敢えて取り上げる必要がないのかもしれない。このことは政党の活動として期待できるのかどうかが疑問である。野党であっても票を集めたいのだから、国民におもねらないことはできないからだ。
フランスという国は近代における政治革命の発祥地でもあるわけで、その伝統かどうかは定かではないが、いまだに政治主張とか社会問題について、個人レベルでも小冊子を作って配る風習が続いている。日本でも水俣病を最初に公に伝えたのが地元のミニコミであったように、少部数印刷物の役割は健在であるように思える。さて、他の国ではどうであろうか。
デジタルとネットの時代になって、かえって印刷物による情報発信は減ってしまったのではないだろうか?その代りにWebやSNSでの情報発信は何ケタも多くなっているのだろうが、それらから気にかかった記事などを保存して、あるいはプリントして繰り返し見ながら思考を継続させるという風習ができているようには見えない。Kindleであっても、何か心にひっかかりを感じた時に、思い出しては振り返って見るというようにはならないように思える。
もしそうだとすると、すぐに答えが出るわけではない「問いかけ」は、ネットやデジタルでは行いにくいことになってはしまわないか?
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