投稿日: May 13, 2015 12:20:16 AM
新聞や雑誌で「記事広告」とか「PR」とことわるようになったのはいつからだったろうか?私の子供の頃は必ずしも明記されていなくて、読んでみて「これは広告だろう」と判断したものだった。内容が広告ぽいものについては、他の記事本文とは、レイアウトが違う、フォントが違う、見出しの付け方が違う、などで広告と判断していた。その後文末に広告と記されるようになり、さらに後に柱(欄外)に広告である表示がされるようになったと記憶する。このように広告の規制が整備されていった。
今アジアのジャーナリズムをみると、かつての日本のように広告と記事がはっきりしないものがある。 その場合は逆に言えばメディアに採りあげてもらう「パブリシティ」というものが無く、ニュースリリースまで全部お金を払わなければならないこともある。
紙媒体に対して歴史が浅いネットでは似たような問題が繰り返されている。ネットの情報はしょっちゅう見ているにも関わらず、ネイティブアド問題に関心をもったことはない。なぜならSNSでも広告ぽい記事は増えているのはわかるが、鼻から読まないからである。だから具体的にどういうことが今起こっているのか知らないが、記事広告にはちゃんとその旨を明記することになっているのに、そうはなっていない例が散見されるということだろう。
広告と明記するとスルーされそうだから、PRとするか、もっとSponsordとした方が喰いつきやすいか、とか目立たない工夫を重ねているうちに、ドサクサで明記しないものが入ってしまったのだろうか?
これは広告主の意向なのか広告営業の問題なのか、なかなか判別し辛いのだが、いずれにせよ歪曲されたコミュニケーションである。広告主は自分で堂々と広告をすればいいわけだし、パブリシティのネタを提供すれば記事は書いてもらえるものを、金を出して第3者の評価を得ているような記事が欲しいとしたら、ネジ曲がっている。
広告営業も堂々と広告を受注すればいいものを、読者に記事と思わせたら効果があるようなことを言っていたとしたならば、ちゃんとした広告の価値を認めていないわけで、これもネジ曲がっている。
だいたいネイティブアドをスルーしている人に対してはどういうアプローチをするのか考えていないとすると、数撃てば当たるSPAMと同質である。
要するに広告売り上げを短期的に嵩上げしたいがために、何重にも広告提案をしているからこうなるのではないかと思う。広告をビジネスとしている側としては、何重もの広告提案をしてクライアントの選択肢を多くすることは間違いとは言えない。むしろそういう提案に呑み込まれてしまうクライアント企業の主体性の無さが透けて見える。
顧客コミュニケーションまでをも広告代理店に依存している企業はマーケティング能力がないのと同じで、本来なら営業や店舗など顧客との接点のところが経営の舵取りのアンテナとして機能しなければならないのが、外注・派遣・アルバイトなどで社員を減らしてしまったツケとして、自社で判断できなくなっているのではないかと思う企業がある。
ネイティブアドは、そういったマーケティング力低下の仇花なのかもしれない。
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