投稿日: Apr 12, 2014 12:59:16 AM
なぜ美意識が生まれるのか
子供のころに爺さんの古い懐中時計をもらったのだが、何度も引越しをしているうちに見失ってしまった。もらった時点で時間が正確ではなかったので、時計としての価値はなかったのだが、裏蓋をカポッと開けると、歯車の組み合わせが見えて、そこでは歯車が取り付けられている板金にも細かな装飾模様があり、歯車の動きが無機質なものではなく、何かファンタジーな世界を繰り広げていた。懐中時計は蓋があってその内側も金属を削った後が模様のように残っているのだが、普通は人が見ない裏蓋の内側も同様の模様があり、さらにそこに花文字で何かが刻印されていて、こちらの方が美しいほどであった。
なぜ人の見ないところまで装飾が意識されていたのか不思議だったのだが、大人になってハードディスクが登場して1GBで100万円だった時代に裏蓋を開ける機会があって、そこも同様に蓋の内側に削り跡がきれいに残っていて、謎が解けたような気がした。
つまりこういった人に見せない装飾というのは、作っている側の美意識で決まってくるものなのだ。金属をえぐる作業では切削機械の切り跡がつくのを見ながらの作業になるのだが、これがむらなく同じ作業を繰り返していけば、きれいな幾何学的な模様ができてしまう。これは時計もハードディスクのケースの内側も同じで、熟練者がすればムラが出ないから美しく見えるのであるし、そのことは本人も自覚しているはずで、「こんなに美しく削れるんだ」ということを誇っているはずである。
いろんな職人が美意識を発揮して、そういったことの積み重ねで、人が見ない部分は製作者たちの独自の美の世界になっていったと思われる。
同様なことが、記事『力技も必要』で書いた配線のジャングルにもいえる。プリント基板の配線は昔は印刷の版下と同じ様にアートワークで制作されていて、インスタントレタリング(死後)が用意されていたようなものだったのが、CADになってからはコンピュータが線の引き回しを決めるので、人間の美意識が入り込みにくくなった。しかし実際にパソコンのマザーボードの配線を見ると、CAD任せにしたものと、人間の美意識が入ったものの2種類のパターンがある。
コンピュータ任せで配線をする方が部品の配置の粗密がアンバランスになりサイズも大きくなりがちで、人が部品をレイアウトした方が同じ様な密度で部品が配置されてコンパクトに仕上がる傾向がある。そして見た目も「お見事」感が出てくるようなものとなる。おそらくは、コンパクトに作ろうということから人が調整しだすのだろうが、そうしているうちに美意識もでてくるのだろう。
昔エニアックのモジュールが展示されていたのを見たが、これは真空管時代だから全部の配線が半田付けなのだが、銅線の折り曲げ加工はあらかじめどこかでまとめて処理されていたと思われ、規則正しく並んでいる様がプリント基板のように美しかった。
こういう工業的な目的の製品であっても、製造するのが職人である場合は、製造の品質向上にともなって美意識が芽生え、その美意識が不良の発見とか防止にも役立つような関係ができていったのだろうと思われる。
データセンターのラックの裏の配線を見ると、やはりきれいなのとそうでないものの差があり、きれいでないものは何か問題を抱えているのではないかと感じることがある。