投稿日: Oct 31, 2010 11:20:55 PM
知財権ビジネスモデルに疑問を持つ方へ
もともと数式をfortranに書き換えたところで、それが著作物であるとは誰も考えなかった。マイコンの黎明期ではプログラムは自由に配布されコピーされては改良されて使われていた。一方で日本などがIBMメインフレームの互換機を販売していて、IBMのプログラムがそのまま走ることを売り文句にしていたことの対策をIBMはしなければならなかった。IBMはソフトウェアに著作権を持たせるようにロビー活動して、互換機に抵抗をしていた。ビルゲイツはマイコン人間としては珍しくソフトウェアに権利を主張してBasicを商用化し、その後DOSはIBMに採用されMicrosoftの発展につながる。ソフトウェアの知財権に関しては最初からネジレがあって発展したので、いつまでたっても単純な原則で運用できるものにならない。
コンピュータで先陣を切ったアメリカは知財権をビジネスの武器にするようになって、知財権を盾に訴訟で大金をせしめるために、金になる古い特許を探し回るようなことも、またエンジェルな特許を使って大手企業を引っ掛けようとすることも起こった。確かに知財権の使い方で、法律知識と技術戦略があれば小さなオフィスだけでも 何十年会社経営の努力をして利益を上げるよりももうかるようなことも起こった。このように儲けようとしたRambusとかFirewireなど次々と出てくると、アメリカから汗水流す製造業が減ることにもなるし、メーカーはそれらをなるべく使わないように回避策に共同で投資するようになった。IBMのメインフレームもソフトウェアは守れても、ハードウェアがメインフレームからダウンサイジングになってしまうと、結局は一つのソフトウェアでずっと稼ぎ続けることは困難になった。
むしろIBMはオープンソフトコミュニティに金を出してそれを使う側に変わり、ソフトウェアを守るのための投資は無に帰したのではないだろうか。メインフレームが捨てられただけでなく、知財権はモデルがすぐに作り替えられてしまう新陳代謝の激しい技術革新には役立たず、CPU開発やOS2の開発によってIBMがコンピュータ業界の中心に居ることは出来なくなったのである。デジタルメディアというのも代替手段はいくらでも考えることが可能なので、知財権で守られる領域はきわめて狭い。これは知財権がいらないと言う意味ではなく、拡大解釈をしてビジネスを無理やり大きくするものではなく、むしろオープンソースの開発者のように実際に創意工夫をした人にどうやって還元するかという、人格権的な扱いができないものだろうか。
Javaはプログラムを端末に送りつけて実行するというコードのストリーミングのようなことを考えたわけで、これは今のインターネットではあたりまえのことであるが、かつてのソースコードは門外不出という考えからすると正反対のことが起こった。しかしコードをオープンにすることはマイコン黎明期からずっと存在した考えであるし、オープンソースにつながっていて、自由にプログラミングできる世界の方が企業資産としてのソフトウェアを量質ともに上回る時代を迎えている。おそらくソフトウェアだけでなくコンテンツと呼ばれるものもそのようになるだろう。イノベーションのジレンマになぞらえていうと、知財権金儲けのジレンマのようなものにビジネスは縛られていたのであるが、それらから自由な発想が今求められているのではないか。