投稿日: Jan 03, 2011 10:41:47 PM
日本のクリエイティブ力を信じる方へ
twitterで「シンセといい、ボカロといい、これらの発達は音楽に関する日本の特殊事情が裏にあるように思う。」とつぶやいたら、「いや、そうでもないかも。」というレスがあったので、ちょっと説明が必要かと考えた。記事『初夢:201X年紅白ボカロ歌合戦』は、このことを意識して書いたもので、生音楽への回帰の過程としてアマ音楽の興隆が必要であろうという考えである。確かにメディアビジネスとしてのレコード売上は産業的に見ると確保したいものかもしれないが、その売上が音楽の再生産にまわってエコシステムのようになっているかどうかが問題で、既存の音楽産業は新たに魅了的な作品を生み出すことができていない以上、もっとクリエイティブな世界になるように作り変える必要がある。しかしそのような自助努力はみられないから、一度アマとの接点を見直すのがいいと思う。そもそも音楽には国境はないので、日本のマンガやアニメが世界にある程度広がるなら、日本の音楽もそれにつれてグローバルなビジネスに変化するほうが自然である。しかも音楽のインターネット配信のような仕組みがすでにあるわけだから、日本から音楽発信をする上でのバリアはなく、音楽輸出は日本の音楽の質にかかっているが、そのようなプロデュース力はガラパゴス化した音楽産業にはない。
しかし歌手は世界中どこでも育つものなので、音楽産業以外のところで育てる風土があってもよいし、それは可能である。冒頭の日本におけるシンセやボカロの発達の裏事情とは、日本に生音楽が少なかったことである。邦楽の古い芸能とか習い事の時代は生音楽しかなかったのだが、第2次大戦後はレコードの普及とともに西洋楽器の習い事も増えていった。その過程では日常生活の中での西洋音楽は少なく、カラオケのような日常生活とは切り離された場を別に作ってしまっている。それが音楽など情操教育の普及とともに、昔の邦楽のように生音楽の復権の可能性は高まっている。
特にキリスト教的生活では人が集まるところでは音楽はついてまわるもので、ゴスペルのように歌を契機として字の読めない人でもキリスト教に近づくという習慣もあって、黒人音楽は発達した。アメリカの黒人は人口に対する音楽家(例えばレコードを出した人の数)の率は白人よりもはるかに高く、逆に言うと音楽では食べて行けない音楽家の率も高い。日本的に言えばアマチュアの水準が高く、アマでもレコードは出す機会はあったということである。しかし音楽産業が大ヒットばかりを狙うと、TVなどマスメディアでアピールできるショウ化した音楽に偏重してしまい、アマチュアとの接点が薄くなってしまう。今の日本のCD売上が嵐とAKB48に集中してしまうのはその結果で、本来の音楽の多様性を考えるとアマチュア振興が重要である。
若者は実は活字離れしていない統計を紹介したことがあるが、リテラシー議では若者が読むものと既存の書籍のギャップが理解できないことが多い。少年向けの電撃文庫、ガガガ文庫などのライトノベルは、既存の小説家から見ると大した作品ではないと思うかもしれないが、アニメを見て育った世代からすると自然な作品に思えるのだろう。そういう世代が新たな書き手として登場してきたから活字離れしなかった。今後はライトノベルの様式でも優れた作品と評価されるものが出てくる可能性はある。大衆文化とはそのようなもので、大衆とともに歩むような新たな音楽ビジネスが社会の隅々にまで広がることが、次の世代の音楽を生み出す土壌であろう。
だからかつては日本の場合は、ある人が作曲をしても、気軽に誰かに演奏してもらうとか歌ってもらうことができないという点が、シンセやボカロの発達の契機であったと考えられる。逆に今日ではこのような技術で音楽を自由にできるようになったので、生活の場に音楽を取り戻せることにつながるし、ライトノベルではないけれど大衆文化を耕せば既存のメディア業界の常識ではないスタイルが生まれるかもしれない。