投稿日: Nov 29, 2012 2:10:25 AM
文字リテラシーは逆に向上していると思う方へ
人々は年賀状をもらって悪い気はしないのだろうが、それでも年賀状は減っているだろう。自分のことを考えても、ここ数年で知り合った方で自宅住所を知っている人の割合はきわめて少なくなっている。仕事の名刺というのは残っていても、会社宛に出す年賀状は儀礼的過ぎて、かえって身近な人には出し難い。かといって普段から手帳の住所録のようなものは作っていない。今はソーシャルメディアで自然に誰が何をしているか大まかにわかるので、年賀状が届いて初めて引越ししたことがわかるようなこともなくなった。知人の消息を確認するための年賀状という役割もあって、特に先輩からの年賀状が無くなると、元気か、生きているかなど詮索するものであった。こういった情報もソーシャルメディアで伝わるようになりつつある。
子供が小さい頃は毎年の変化が大きいので、もう幼稚園、もう中学、というように話題性もあって、家族単位の連絡に年賀状は使われるが、高校生とかになると家族の年賀状に組み入れられるのは嫌がるようになる。子供の世界では年賀状はすたれてしまっていて、ソーシャルメディアでのやりとりだけである。つまり年賀状の楽しみというのは、もらうという面でも、作るという面でも無くなっている。住所は個人情報であり、簡単にアカの他人には知らせないような意識になっているらしい。
日本郵便は住所の分からない相手でもネットからソーシャルメディアの知人に年賀状を送るシステムを新年に向けて作った。相手のSNSのアカウントを入力すると、相手の側に年賀状を受け取るための住所を入力を促し、そこに配達されるが、入力された住所は差出人に知らせないというものである。だからソーシャルメディアだけでつながっている若者にも年賀状を活用してもらえるだろう、という考えだが、本当にそうだろうか?
年賀状という慣習によって、今までは筆不精であった人も、最低限のコミュニケーションをする術を得ていたと思う。しかし若者が日常的にソーシャルメディアをせっせと使っているということは、文字コミュニケーションに関しては筆不精ではなくなっているわけだから、彼らは必要とあればメールやネットのメディアを使いこなすことはできるという点で、昔から比べれば格段に文字リテラシーは向上していると思う。
ただメールやSNSでの日本語がなっていないという人は居るだろうが、ケータイ小説のように特定世代の間の新しいコミュニケーションが出てくることを思うと、この程度の日本語の変化は世につれてあるのだろうなと思う。