投稿日: Jan 30, 2011 11:56:5 PM
メディアの再構成を考える方へ
も うTV放送はダメで、これからはネットに集約されるという意見は多くなっているが、ネット上でTVと同じことができるかどうかは分からない。TVのような 大きな事業規模のものが今後ネットに登場することにはなるであろうが、ジャーナリズムのような役割はネットとは違う味のものがある。これは書籍・雑誌にも パッケージ媒体にもあてはまると考えられる。TVとネットの融合は、生活者の場ではあまり区別なく見られるようになったという点で実現するが、情報発信側 のメディアとしては世に問う「上梓」に相当するpublishするものと、情報発信とかdiscloseするものの「押し出し」の差はどこかに残るだろ う。どうしてもTVには表現の制約が付きまとうのに対して、ネット上は個人でも無審査で情報発信できて「いいたい放題」の世界は同列にはならない。ではなぜTVは窮屈なのに存在意義があるのか。
アメリカは生活の中での音楽への接触が日本の倍ほどある国で、ラジオの設立以来メディアは音楽に溢れてきた。しかしラジオのネットワークでは放送禁止の曲もよくあった。多くは歌詞内容が宗教上・政治上さしさわりがあるというクレームで、電波がどの家庭にも届くことから起こることである。アメリカにはもうひとつジュークボックス網というのもあって、これは家庭ではなく酒場などに置かれるので「何でもあり」だった。放送禁止の曲でもジュークボックスで流行って100万枚売れるということもあるし、有線放送の演歌歌手のようにライブとかジュークボックスが対象のミュージシャンというのもいる。昔アメリカの音楽業界紙はBillboardとCashboxの2種があって、後者の方がジュークボックスの傾向が出ていたように思う。
一口にジュークボックスといっても店の性格が白人向けか黒人向けかによって曲の構成は異なるし、地域によっても曲の構成は大きく異なる。これは音楽におけるソーシャルのようなものである。音楽になぞらえてソーシャルを考えてみると、個人が聞くPlaylistのようなプライベートな曲群に対して、家族が共有するレコードコレクションという曲構成、地元の店のジュークボックスのようなライフスタイルと連動した地域性のある曲と全国ヒットの混合、ラジオでかかる全国配給のヒットレコード(若干地域性あり)、TVネットワークで伝えられる良識あるアメリカのポピュラー音楽、というようないくつかの世界が重なり合っている。(ちなみに私的趣味はJukebox音楽)
つまり1曲1曲の好き嫌いではなく、音楽のセンチメントをシェアするメディアが段階的にあって、人々はそれらを複合的に使い分けていて、どれかのメディアだけに接するというものではない。この最後の2者であるラジオ・TVに載る音楽は、自分の趣 味嗜好として他人の前に表明できるものになり、ジュークボックスや有線で聞くような音楽は近しい人にしか言わないかもしれない。メディアの世界の再構築を考える際に、こういったソーシャル度合いの違いという軸ができるのではないかと思う。