投稿日: Dec 03, 2011 1:21:59 AM
個人が頑張る時代と思う方へ
北海道大学の学生新聞を出している新聞会が無くなることが決まったと朝日新聞に出ていた。2007年に発行が途絶えて、昨年部員が一人入って先輩が卒業したので、部員が一人になり、その人が最終号として16ページの冊子を作った。北大新聞の古さは公立大では東大京大に次ぐ1926年の創刊だったが85年間の幕を閉じる。紙メディアがいろいろな問題を抱えているにしても、それに育てられた人たちがいたことは間違いない。しかし後継者が絶たれるということは、やはり社会的評価を反映しているように思える。ではそれに代わるジャーナリズム部とかメディア部というのはあるのだろうか?または可能なのだろうか?
私が中学生の頃は新聞は社会正義の代弁者のように思っていて、将来は新聞記者になりたいとも思った。しかしあるとき過去の朝日新聞の縮小版を本にしたものを見て、戦争中はやはり大本営発表を営々と伝えていたことを知った。高校生の頃は新聞を客観的に見るようになり、各紙の書き振りを見渡すような視点になったし、新聞社に入る気はなくなったことを冒頭のニュースで思い出した。だからといって雑誌とかテレビなら理想的な仕事ができるような気もしない。当時はまだ雑誌やテレビから文化人を輩出していたが、特に民放テレビはエンタテイメントに傾注してから、テレビを足場に他の領域でも活躍する人はめっきり減ってしまったし、仕事場としても下請けプロダクションの比重が高まり、志を持って入社する人は減ったように思う。
パソコン通信とかネットの時代になって、デジタルメディアに関わった人が何を成し遂げたのだろうかと考えてみた。一時的に金を儲けた人もいるだろうが、名誉としては紙の本が売れたというような、デジタルメディア以前のところに名を残す程度で、栄枯盛衰の結果はあまり社会に楔を打ち込むところまでは行っていないと思える。特にこの1年は、HuffPostのAOLへの売却、TechCrunch編集長交代、Mashable編集長交代などを見ていると、デジタルメディアが既存メディアに立ち向かっていたかのように思えていたことは、幻想に過ぎないことがわかる。あくまでメディアビジネスの構造は変わっていなくて、将棋の駒のように若い意気盛んなデジタル編集者を動かしていただけなのかもしれない。
ベンチャーといっても既存勢力にバイアウトして「上がり」なのであれば、既存の枠組みの中での金儲けでしかないわけで、その程度なら新しい文化を築くことはできないし、今の民放テレビと同じように人材の輩出も後継者の育成もできないだろう。過去を振り返ると、音楽とか映画が一番ストレートな表現メディアであったかもしれない。音楽とか映画は大きな刺激を与えて、そのようなことをしたいという人を興す力がある。それは今、サブカル的なコミック・アニメ・ゲームにも及びつつあるが、若者の心は新聞やテレビから逸れてしまった。既存でもネットでもマスなメディアが先に会社ありきで運営されるのに対して、音楽・映画・サブカルは個人のクリエータありきである点が違うのだろうし、最初はいいものを作っても喰えない時代があっても、その時に個人の成長があると考えられる。
つまり会社ありきのメディアは新入社員の役に立たない人でも給料がもらえる代わりに、成長する機会も限られる。ソーシャルなデジタルメディアは個人の成長に合わせて「身の丈メディア」としてボチボチ歩むしかないのかもしれない。