投稿日: Jul 20, 2011 11:0:28 PM
綱渡りが続けられるのかと思う方へ
インターネットの歴史の中で良貨が悪貨を駆逐した例として挙げられるのがWikipediaの成功だ。www.ebook2forum.com研究講座で立入勝義氏(http://ichikarablog.com/ 公式サイト)が「ウィキペディアンの憂鬱」というような話をされていた。日本のWikipediaは75万項目について1万人ほどが編集に携わっていて、それを60人ほどの管理者がチェックをしている。それらの方に直接コンタクトされた経験から、その作業の大変さとかかわっている人の苦労や問題点があるらしいことがわかる。管理者はアカデミックな人のボランティアであって、その人たちの傾向というのもうかがえる。要はビジネスの世界の礼儀とかコミュニケーションと違うものを感じる局面があるということなのだが、これは結構想像できるものであった。
日本人は子供のときから議論をする習慣を身に着けていないので、ネットを介しての編集のやり取りが結構きわどい一触即発の状況になりかねないことはわかるし、そのような立場で仕事をする管理者がストレスが多く、フツーの人なら鬱になってもおかしくないこともわかる。だからある意味では他人との意見のやり取りにタフで、絶対に自分を曲げないくらいの偏屈な人が居着きやすい場であることにもなる。これは大学教授で学会活動や標準化活動をしてる場合でも出くわすタイプのセンセイである。まあ個人的には若干付き合い難い点があるにしても、自分の領域に関してはしっかりした見識があって、結果的には良い仕事をする人が多い。そう信じるのがラジカルトラストの姿勢でもあるのだろう。
Wikipediaには「五本の柱」という基本原則があって、どうであるべき、どうあってはならない、などが書かれている。しかしその5番目というのが、「この5つ以外にルールはない」であって、日本では依然議論中であるということで、日本版には「ウィキペディアには、確固としたルールはありません」「Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい/解説」など、草案がWebにはあがっている。これをどう考えるかは難しいが、Wikipediaが生き延びていくにはルールに縛られてしまうのはよくないということだろう。こういった緩さをもつ弊害としては、「こんな項目は必要か?」というものも排除できないことである。立入氏は日本のWikipediaがAV女優の百科事典のようになっていることを指摘したが、あまり目くじらをたてることでもないかもしれない。こういった項目のコントリビュータが一方では結構まじめで有効な項目のコントリビュータであるかもしれない。そうでないとWikipediaの中に情報が蓄積されることはなかっただろう。
AVはさておき、情報の価値を考える上で、何が価値あって何が価値ないか、ということは本来決められない。柱の5本目が「No firm rules」であるのは、いい加減なわけではなく、未来に役立つかもしれないものを排除するわけにいかない、という考え方があるのかもしれない。毒物の作り方から核兵器の作り方というのがあっても、それはサイエンスとして考えれば意味があるが、用法においては善悪の判断の対象になるようなものだ。2番目の柱が「Neutral point of view」なのでWikipediaを価値観のぶつかり合いの場にするのは避けるべきなのだろう。偏屈なセンセイに翻弄される局面がなくならないにしても、ポリシーを掲げておくことで、それにふさわしい人たちが引き継いでいくことになる、…はずだ。