投稿日: Feb 08, 2013 1:52:51 AM
人はやりなおせるのかと思う方へ
スポーツ特にプロスポーツには疎いのだがドーピングがよく話題になる。その影には八百長試合とかBooking(賭け)がからんでいるかららしい。そのために選手が自発的に行っているというよりは、周囲から持ち込まれてしらないうちに薬物を使わされたということも聞く。日本では公的なスポーツの賭けは非常に限られているし、野球や相撲以外に裏家業としてのトトカルチョがどの程度あるのかは知らないが、世界的には多いのかもしれない。裏の世界からすると選手は所詮使い捨てなので、ドーピングが発覚して資格停止になろうが賞金返還を迫られようが関係ないが、スポーツ選手にとってはドーピングは選手生命に関わるのだから、やらない方が懸命という認識はあるだろう。
特にプロ選手は高額な賞金をもらった何年も後からドーピングと認定されたから返せといわれても手元にないかもしれない。そこで反ドーピングキャンペーン活動に参加・加担することで返還額を減免してもらうという救済措置があるようだ。これは司法取引と似ている。日本では「あいつは不正をした」という倫理問題にして裁いてオワリというケースが多いが、司法取引はそうではなく、1つ1つの罪を清算させるよりは、もっと別のものにターゲットを置いている。その目標のために捜査に協力させるわけだが、捜査協力ということ自体が罪の償いという考えがあって、その分を差し引くことで罰が軽減されるのだろう。
これは2つの点で面白い。第一は個別犯罪の問題と、類似犯罪を抑制するというより大きな課題である。第二は罪の償いとか罪の許しの問題である。両者とも日本と西洋社会で若干のずれを感じる。第1点については日本国内でも地域によって考え方が異なるのではないかと思う。例えば関西では司法取引はOKが多く、関東ではより倫理優先の個別処罰になるかもしれないなと思う。裁判員制度が定着すると地域ごとの価値観の差が出てくるかもしれない。(アメリカは実際そうなっていて、絶対的な正義の判断はされない。それはそもそも絶対的正義は人が決められないという考え方からくるが、日本は法律が絶対正義のように思う人が多いのだろう。)
第2点の罪と罰の問題は西欧のキリスト教社会と日本の差があって、日本では一度犯した罪は消えないが、キリスト教では回心すれば宗教的な罪は消えるので、過去の罪償いも本人次第ということになる。犯罪者から牧師に180度変わった人はいくらでもいる社会である。だから犯罪の捜査段階でも司法取引のような転向・回心の余地が生まれるのであろうし、その証として積極的に犯罪防止とか被害者救済の社会的な活動が行われるのだろう。そこではもはや犯罪歴は恥ではなくなって、「私のようになるな!」と、回心後の自分を積極的にアピールして堂々と暮らしていけるように変わる。
こういう点は個人の再生の道であるし、社会の活力にもなると思う。