投稿日: Sep 07, 2012 1:21:45 AM
広告は暴力的メッセージと思う方へ
欧米に行くと日本より広告が多いところと、日本に比べて少ないところがある。少ないところは明に暗に規制があるからである。それは建物の色にも規制がある場合があるように景観保護からくるものもあれば、内容審査によるものもある。特に内容に関してはモラルとの問題に一筋縄ではいかない。以前にAppleがあるところでAppleStoreを出店しようとしたときに、食べ物を看板にしてはいけないという条例があったので、リンゴをかじったロゴが掲げられないということがあった。これらは住民にとっては広告よりも大事なものがあるという認識から来る。
広告は暴力的メッセージであるという考え方がある。日本では当たり前の光景に見える電車の中吊で雑誌の見出しが詰まったものがあるが、かつて山口組とどこかが抗争していた大阪戦争などでは大変血生臭い漢字が車内に踊っていたような記憶がある。それ以外でも有名人のゴシップや猟奇事件などではとんでもない単語が人の目に付くところに登場した。こういったことは当然外国にもあって、特にラテン系の発展途上国はセンセーショナルなものがお好きなようで、写真も新聞1面トップが死体であったりする。これを日本人が見ると、子供も見るようなところにこんなものを載せるのはどうなのかと考え込むであろう。それと同じように広告の文言も公衆に晒してよいものと悪いものとがある、という考え方が出てくる。
商業ベースの場合は、そのビジネスそのものが「R」な、つまり風俗とかギャンブルとかの場合を除くと、人に生理的な嫌悪感を抱かせるようなものは少ないのであろうが、サプリメントが医者よりも信用できるかのような甘言とか誤解の元を、判断力の弱い人々に見せつけるのは、マイナスの知識を植え込むので、やはり暴力的メッセージと言われる。つまり内容が暴力であるのではなく、誰でも見えるところに置くことで、見ないことをできなくするのが暴力なのである。「誰でも見える」ということはそれだけ内容が規制されることになる。だから広告ビジネスの鍵は次々追加される規制を理解して対策をたてることにあるが、実態はイタチゴッコのようになっている。
まあ広告に倫理を求めること自体に無理があるというか矛盾があるので、欧米では広告が厄介な問題になりそうなところはズバッと認められなくなってしまったのだろう。その一方でアメリカでは未だにDMが多いように、一旦何かでコンタクトの出来た相手とは必死にコミュニケーションをするようになったのだろう。日本で何かを買ってユーザ登録しても何の音沙汰も無いのとは大違いである。つまり日本はコミュニケーションよりも広告に偏重しすぎたことをしてきたことになる。
そういったことがネットでコミュニケーションが容易になったにも関わらず、日本のマーケティングや販促はそれらをうまく使いこなせないで、従来のマスメディアや紙媒体の広告内容をネットやメルマガでも使いまわして、コミュニケーションをしたつもりになっている場合がある。コミュニケーションはどこかの専門家に教えてもらわなくても、顧客と真摯に向き合えば自ずと成立するものであり、それを第一にせずに広告に期待をかけるのは間違いだろう。