投稿日: Jun 13, 2013 1:2:58 AM
デジタルなら残る可能性がある
一体自分の先祖の情報はどの程度残しておくべきだろうか? 最近の葬儀では故人の人生の節目節目の思い出の写真などをパネルに貼って、参列者に見ていただくようなことをする場合が多いし、今はスライドショウでスクリーンに出したりデジタルサイネージにしてくれる葬儀社・葬儀場もある。母親が亡くなった際には葬儀はほんの身内だけで行って、別途ホテルで記念会を行っていろいろな関係者に来ていただいた。その間に1ヶ月ほどがあったので、遺品整理をしながら参列者にも思い出になるような写真や資料を揃えた。その時に整理していたことが、後で外部からの要望にも応えるのが楽でいろいろ役立った。
父や母の遺品には祖父母の遺品が含まれ、明治時代に婆さんが少女時代に撮ったガラス乾板に焼いた写真などもあった。また母は日本画をしていたとか晩年父親と一緒に写真をしていたときのものなどがある。それらの大半は本人たちが晩年に自分で処分していたのだが、幾らかは残っている。海外の写真などで捨てがたいものがあって、フィルムスキャナを買ってデジタル化しようかという気にもなる。
自分の子供に関しては誕生前からすべての画像映像がデジタルになっているので、モノとしての整理は必要なく、あるときに簡単に本人に受け渡せる。それから考えると、今残っている先祖の情報もファミリーアーカイブとしてデジタルにしておいた方がよいかもしれない。
祖父が亡くなった際には戦前からある書斎は殆ど処分せざるを得なかった。ただ近松門左衛門全集というのは歌舞伎ファンの方にもらっていただいた。これらは外部から購入したものだから家族が扱う必要もない。しかし亡くなった身内が作家やクリエータであったなら、ご先祖の作品はどう扱ったらよいのだろう。
有名な美術家などは美術館に寄贈するだろう。美術品の保管や保存やセキュリティなどの管理を家族が負うのは大変だからという理由もある。その点音楽家は手ぶらで亡くなるし、権利関係は管理団体が、音源はレコード会社が管理しているので、一般には家族はあまりすべきことがないだろう。
しかし Jimi Hendrix の場合は父親が音源をレコード会社から取り戻してリマスターをして再発売にもっていった。これは録音された音源をレコード会社が加工してレコード販売いていたので、本人の意図には沿わないものもあったからである。つまり本人の意思に基づいたオリジナル管理が必要な場合があるということである。
小説や漫画も作家の原本に対して出版社の手が入ることもある。今電子書籍化するに際して、もう一度作家が見直して自分で手を入れなおすこともある。つまり作品というのは原本と商品の2つの側面があって、商品の方は出版社などが管理して、原本は(残っていた場合)家族・遺族が扱うことになるのだろうが、現実問題として家族に原本の管理能力があるとは思えない。過去作品でも出版社が再マーケティングする気があるものはデジタル化するだろうが、出版社がもう面倒を見る気がなくなったコンテンツに関する権利やその処理はこれからの課題である。
作家の家族が出版社以外に相談相手を見つけることはできるだろうか? 作品のパブリックドメイン化を前提にすればボランティアベースで誰か関心のある人や組織にデジタル化してもらえる可能性はある。もしデジタル化しないまま死後50年原本を保管していても、その間に陽の目を見る可能性は極めて少ないだろう。
出版社が相手にしてくれなくなったコンテンツは、むしろ出身地の地方自治体などが原画原稿を預かってくれると、再評価の可能性が高まるようにも思える。有名人の記念館などを作ったり支援・管理しているのと同じ考え方である。