投稿日: Dec 26, 2013 2:30:49 AM
評価にはいくつかの段階がある
ヒット作を世に出すために、マーケティングをしてから創作する組織が巨大化したのは20世紀の特徴でもあった。初期は大ヒットは偶発的に生まれてロングセラーとして定着したかもしれないが、それを如何に短期間で行うかのノウハウが積み重なっていったと思える。昔からロングセラーはあって、私の爺さんが東海道五十三次などの版画をもっていたが、どうも明治に刷られたもののようで、いかに長期にわたって刷り続けられていたかがわかる。
それがハリウッドのように投資をして短期にヒット作をヒネり出すようになったのは戦後からではないかと思う。そんな意図のないところからでもヒットは生まれるものであるが、それにはやはり時間がかかるのが一般的だ。
食品・お菓子・雑貨などなどマスプロダクツでも爆発的なヒットというのは有り得るが、コンテンツをそれら消費財のビジネスと同じように考えるのは違和感がある。本でいうならば、よく読まれる本というのは図書館でも多く貸し出され、古本としても何度も循環するようなロングセラーであるし、音楽なら街でもラジオ・テレビでも昔からよく流れていてタダで聞く機会が多いのがヒット作の一面である。これは時間の制約を越えてコンテンツが定着するという様相があるということだ。
だから一定期間の消費量を追いかけるビジネスではないということだし、とくにエンタメの場合はそもそも消費という概念があてはまらない。よく青春時代の嗜好を後にもひきずるというような、短期間のマーケティングにはそぐわない面もあって、そっちの方が本質的なマーケッティングではないのか。
生活者にとってはコンテンツを媒介に何らかの感覚の共有とかを得ているわけで、所有という面よりもサービスの面が大きい。紙や盤が偶像化してしまうような本やレコードの所有という面は残ってはいるが、所有欲にフォーカスしてコンテンツのマーケティングを考えるわけにはいかないだろう。コンテンツ販売は何らか共有される価値があることを訴求するとすると、ジャンルわけというのが重要で、今でも自然にそのようなことはされていて、棚割とかにそれぞれのノウハウがあって、生活者は自分にフィットした書店なりCD屋を選ぶことになり、ネットでもコンテンツの評価サイトがそのような役割をする。
一方でクリエータは孤独な存在であって、作品が特定ジャンルで評価されるようになるまではガマンの時代が続く。コンテンツのマーケティングというのは、孤立したクリエータ評価して体系のどこかに位置づけてあげる作業がふさわしいのではないかと思う。実は今までも流通の過程に何らかの「評価機関」が置かれていたことは多いが、ネットでは本棚の喪失のようにうまく機能しなくなった面がある。
(定番化とトピックな要素の併せ持った商品化については 続きで‥)