投稿日: Sep 17, 2013 1:2:59 AM
メディアに進歩は有り得るのか?
マスメディアのことをマスゴミと揶揄するようになったのはネットの時代になってからだと思うが、ネットの情報はマスコミ以前の瓦版のごとく怪しさに満ちた断片的な情報がゲリラ的に出ては消えているので、あまり現在のネットの情報拡散が進化しているとは思えない。ネットによって情報発信が誰でもできるようになったとはいっても、それは瓦版でもガリ版でも似たようなもので、ネットが可能にしたのは到達範囲を全世界にしたことだけである。ただ世界中の人が知りたい情報などは殆ど無いので、サーバに情報を置いて送信可能にしたところで、個人blogなど普通は何百くらいしかアクセスは無く、結局は瓦版・ガリ版と同じようなことになっている。ただこういったミクロな情報も消えないで残ることは画期的で、それらがそのうちつながって意味を持つことも100万回に1回くらいはあるのだろう。
ではネットの情報でも広く拡散するものには意味があるかというと、バイトの不祥事とか世界にとってどうでもよいもののアクセスが多く、人々も瓦版を求めて居るのだなと思わされる。マスコミもビジネスとして成り立つのは瓦版的ゴシップや、ちょっと良い話的コラムなどでかなり記事の水増しをしているからで、通信社が電光掲示板で流しているような真面目なニュースばかりだと、いったい新聞は何部くらいになってしまうのか? テレビはコマーシャルのスポンサーがつくのか? という状態になるだろう。ネットで新しいメディアを発明しようという試みは今後も続くと思うが、真面目にやりすぎると経営は成り立たず、ちょっと不真面目にやっても無料の瓦版には勝てないという板ばさみかもしれない。
青空文庫に昭和8年の中央公論に載った「ジャーナリズム雑感 寺田寅彦」というのがあり、それを読むと上記のような状況が日刊新聞の拡大にともなってあったことがわかる。その記述があまりにも現代にピッタリすぎて日本のメディアの進歩の無さに恐怖を覚えるほどだ。曰く、「ジャーナリズムの直訳は日々主義であり…特異な相が発達して来るのである。」として、読者の早分りのために事実を類型化しセンセーショナルにとりあげる。それを大量配布することで「あたかも世界じゅうがその類型で満ち満ちているかのごとき錯覚を起こさせ、」るという幻像形成を憂い、人間の頭脳が退化するのではないかと心配している。
どうもその頃にネッシー発見で湧いていたらしく、「現代のジャーナリズムは、まだまだ恐ろしいいろいろの怪物を毎朝毎夕製造しては都大路から津々浦々に横行させている」と書いている。しかし架空の怪物を作るジャーナリズムの方がもっと恐ろしいという。そうこうするうちに第2次世界大戦が始まったのだろう。
こういうセンセーションや喧騒のないメディアができないものかというのは、当時からの課題だったようだ。