投稿日: Jul 01, 2015 12:29:35 AM
国立大学の文系をなくしてしまえというような議論がされているようだが、確かにそういわれても仕方がないほど、文系の学問が社会には役に立ってはいないようにみえる日本である。役に立っていないのは、文系の学問に意味がないということではなく、学問としてちゃんと実績を残さなかったということだと思う。
実際には文系というと文芸とか趣味嗜好のようなニュアンスがあって、学問の値打が無いのでは、と思う人もいるだろうし、そういう人が増えているとすると、文系の学者は奮起しなければならない局面である。過去は思想やイデオロギーが社会の進む方向を決めるような時期もあり、その時はそんな「意味がない」などとは言われなかったからだ。
いまの日本のマズさは、むしろ文系の弱さからきていると思うことがよくある。私の高校生の時に「丙午(ひのえうま)」という年があって、その年だけ40万人ほど出生が少なかった。当時出産している母親は戦後の教育を受けている人なのに、そんなにもまだ因習に囚われているのかとあきれ返ったものだった。
その後にもっとびっくりする統計があって、その年だけ死産が何万人か増えていた。つまり妊娠を回避しただけではなかったのである。これはヒューマニズムへの挑戦であった。
この世代に育てられた人が今50歳前後になろうとしている。果たして子供の世代は因習を断ち切れたのであろうか? 丙午の時も自分の親戚筋ではそのようなことを意識している人は居なかったので気付かなかったのだが、時代が何時になっても人は妄想にとらわれ続けていて、その妄想はヒューマニズムをひっくり返してしまう危険性をもっている。戦争も自爆テロもそうであろう。集団自衛権の議論にはならない議論をみていても、妄想に支配されているとしか思えない部分がある。
つまり妄想と戦う理性というのが日本人の議論の中には確立していないのではないかと心配になるのだ。議論になっていないというのは子供のダダのように「いいっぱなし」が放置されていて、その背景にある思い込みや妄想を解体できていないように見える。
これはネットに数多くある、陰謀論や、「~は体に悪い」や、贋科学や、「真実が隠されている」や、ネツ造だ、というようなものに共通しているもので、非常に局所的な観察をもって、思い込みを補強しているだけである。これは、データと思考のバランスが崩れた状態ともいえ、それゆえに言語というロジックをもって表現すると、どこかに破綻が出てしまうものとなる。
ひょっとすると言語の破綻というのは日本語自体の一面なのかもしれないのだが、そういう危惧があるからこそ、思考の力を強めないと危うい社会になってしまうと思う。
Top → Articles デジタルメディアビジネスの記事 過去記事→Archive