投稿日: Dec 02, 2013 2:3:51 AM
引き継がれないと意味が無い
ソーシャルビジネスを志すベンチャーの若者を暖かい目で支えることは必要ではあるが、実際に社会に必要なことを事業として推進しているのは大企業であったりブラック企業であることは事実で、弱小企業やクラウドソーシングというものが社会を作り替えるというのは途方も無い先の話であろう。だからやっても意味が無いというのではなく、経済的な見返りを安易に期待するよりも、信念を貫いて一生をその仕事に捧げることに価値があって、そういった意思が引き継がれることが繰り返されるうちに社会も変わってくるのだろう。これはアメリカの公民権運動によって人種差別が緩和していったことと似ているなと感じる。
今の日本で伸びている介護ビジネスは補助金が出るから進出する会社が多いが、そこで働く人の待遇と報酬は見合わないもので、働く人の善意に依存しているとか、悪意のあるヘルパーが不正をしているとか、時々ニュースになるようなブラックな会社もある。
これは行政も承知の上のことだろう。人口の中で高齢者比率が高い時代は20-30年も経てば終わってしまい、その間に起こった混乱も収まってしまうだろうということで、目をつぶっているとしか考えられない。
だからソーシャルビジネスで介護なり高齢者支援をするとなると、目前のブラック企業と戦うような姿勢で行いがちだが、それは余り得策ではないと思う。どう考えても彼らの方が金回りがよくて事業を広げ、ベンチャーはもっと割りの悪い仕事になって、そこで働く人へのしわ寄せも大きなものとなる可能性が大だからである。
ソーシャルビジネスも社会の目下の課題に対して何らかのソリューションを提供するものではあるが、目標は目下の課題ではなく、もっと根源的なものを掲げて、大きな理想に裏付けられていないと、意思が引き継がれながら運動が広がっていくことにはならない。高齢者支援ならば、医療制度と尊厳死、生死感、家族や地域との絆などなど関連したことがらがそれぞれ抱える問題も含めて総合的なビジョンをもっていないと、時代と共にそれぞれの要素が変貌する中で自らのビジネスも紆余曲折してしまうだろう。
欧米社会は基本的にはキリスト教のモラルをベースにしているために、ソーシャルビジネスの基盤となる上記のビジョンや考え方も暗黙のうちに共通のものがあって、ある程度は最初から出来上がっているともいえる。それはソーシャルビジネスの前に教会が行う社会的なボランティアが山ほどあって、それらのうちで事業化できるものがソーシャルビジネスという名前で浮上しただけの話だからだ。
ソーシャルビジネスの事業者はキリスト教関係である必要はないのだが、そこに関わって支える人たちはキリスト教の信仰に基づいて関わっている場合が多い。だからムダな議論になりにくいとか不満が出にくいとかで、組織が自滅の道に行かずに済んでいるようにも思える。私の父は末期癌で淀川キリスト教病院にあるホスピスのお世話になったが、病院という事業体とあわせてボランティアの方も病人の世話をしてくれたし、家族も病院の経費とは別に寄付も行っていた。
事業側も支援する人も利用者も経済的な関係だけで成り立ってはいないのがソーシャルビジネスなのではないかと思う。