投稿日: Mar 20, 2015 2:42:53 AM
日本では受験産業の模擬テストの統計的信頼性が高いので、あらためて各大学が入学試験を大げさにやる必要がないことを、記事『偏差値よりも志』で書いた。私学ではセンター試験だけで入学を決める枠があって、全体からすると多くは無いのだが、それらも合格判定として受験料はとっていて、実際に試験開催はしていない点では丸儲けになっている。複数学部の併願も一回のテストで学部ごとに合格判定するからといって、何重にも受験料をとっている。つまり受験料をとるテクニックがこの10数年で大変発達したといえる。それで各大学がとる学生のレベルアップが出来たのならば文句はいえないのだろうが、果たしてどうだろう?
私大経営のカラクリは別として、国公立大学でも学生とのマッチングをよくするならば、大学側からも中高生に向けての講座をするとか、そういった分野に受験産業がパートナーとしてビジネスをする可能性についても述べた。日本の社会全体の活性化のためには、例えば官営と民業の従来の垣根も越えなければならないことがいろいろあると思う。特に官営の側には組織の自己革新の能力が乏しいので、うまく民業が先に経験したことを利用して、あまりリスクをとらずに新しいビジネス形態に移行するのが良い。それは税金の節約にもなるからだ。
ところが官営・公営と民業が一緒になにかやりだすと、きな臭いことになったり、外野が大騒ぎをするとか、良い関係が築けないことを多く目にする。最近では元武雄市長が県知事選に出て落ちてしまったが、その理由は野次馬が大きく左右していたと思える。もともと武雄市で進めていたいろいろな民業とのコラボに対しては、当地では好意的に評価されていたにもかかわらず、むしろ全国的に疑問視する声が大きくなって、その影響が大票田の佐賀市に及んで、元武雄市長は佐賀市で票がとれなかった。まあずっと武雄市に居た方がよかったともいえるので、政治家として色気を出し過ぎたのかもしれない。
官業と民業が関係を持つと、悪代官と越後屋のような癒着とか利権について外部から警戒されるのは仕方がない面がある。既存の民間企業は経営内容をガラス張りにはしていないからである。だから民業の方も官業と一緒にやりたいのなら、ソーシャルビジネスに相応しい運営の仕方を身に着けなければならないだろう。よくいわれるのが納入業者の選定が適切なのか、契約内容が妥当かなどであるが、これは順序が間違っていて、業者側が契約の条件を提示するのではなく、官業の方が必要な条件を先に明らかにしておいて、その実現方法を業者に提案させなければならない。
アメリカの官業が調達する際に、標準化に沿うことを求めて、特定のベンダーに依存しないようにしているのは、アメリカでは民業はいつビジネス閉鎖とか倒産になるかわからないからで、日本のような癒着とか利権とは異なる意味で官民の関係を切り分けているのであるが、こういうことが情報規格の発展を進めてきた。これはコンプライアンスの導入と似たところがある。
逆に言うと日本はこれまで官民癒着を続けて利権を他社に渡さないために、ビジネスに関する取り決めの標準化を意図的に遅らせていたと言われても仕方がない。そういったことを社会的に監視し、フェアなビジネス関係を築いていくためにも、情報規格の推進と、オープンなソーシャルビジネスが求められる。
そのようにしないと、佐賀知事選のように野次馬の風評が支配的な社会になってしまう。
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