投稿日: Jan 11, 2016 1:30:11 AM
日本独自の風習らしいが、地方公共団体などが、成人に達する人々を招き、祝福するイベントが各地で行われている。そもそも成人を年齢で決めるとすると、結婚や選挙権やもろもろの法規とも関係する。世界的に見ても、韓国では男子が19 才になると徴兵検査を受けるなど、一人前の基準は分野ごとに異なったものである。Wikipediaに「世界における成年」という項目があり、アメリカは州で異なると書いてある。成人とはいくつなのかについての見解もバラバラなのに、日本では成人式だけ20歳と決まっているのも不思議である。こんな疑問は自分が20歳の時にも感じたもので、成人式に行かなかったことを思い出す。
おそらくは、七五三とかの延長で成人式もあるのだろうが、その程度なら地方公共団体が費用をかけて行う必要もないように思う。コンセプトが曖昧な成人式で新成人に向かって年寄りが偉そうなことを演説しても聴いてもらえないのは当たり前である。成人年齢を議論しだすと、いろいろ面白いことがあると思う。現在の家庭や学校でやっていることが問われるからである。極言すると大学入試のことしか、あるいは偏差値のことしか頭にない人が多くなってしまった日本を、どのような方向にもっていけばいいのかという議論になろう。こういう議論は日本人は苦手だ。
ところが七五三のような通過儀礼としてみると、女性が和装をする機会であったり、ヤンキーがパフォーマンスをする機会であったり、それなりに成人式の役割は出来ているのかもしれない。こういうお祭り的な成人式が日本には向いているような気がする。思い切って日本式ハロウィンとか、仮装大会とか、非常識なことをやるピークにして、子供の時代を終えるというのはどうだろうか。北九州小倉の成人式などはみんなが楽しみにしていると思う。
ヤンキーが成人式を荒らすという無礼講は暗黙の許可を得ているように思える。それは社会も本人も20歳は一生に一度だけしかないことなので、成人式で暴れたからと言って、同じことを繰り返す可能性は殆ど無いからだ。しかしこういう無礼講は世代を越えて伝わっている。つまり文化とか伝統になりかかっている。外見からすると、昔からある何々族と言われたコスチュームやパフォーマンスが受け継がれているのだ。そしてその風俗もいろんな要素のゴッタ煮で一見キッチュなようだが、日本の祭りの構成要素ももともとそのようなものであったように思える。伝統的な祭りは若者のガス抜きをする装置であったのが、成人式に乗り移ったということだろうか。
近年は成人式グラフィティがネットで観察できるので、オ馬鹿な装束をみるのを楽しみにしているのだが、時代とともにどんどん和風になっていっている。成人式を荒らしている方が、より伝統的であるというのはどういうことか。
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