投稿日: Jul 11, 2015 2:55:24 AM
偽科学とか、針小棒大な記事、あるいは曲解した見出し、などインチキ情報はネット時代になって社会にたくさん拡散するようになった。表現の自由という面もあり、マイナーな意見の表出できる場所の貴重さという意味はあるのだが、ガセ情報を見分ける力を人々がどこかで身に付けていかないことには、社会は不安定になってしまう。
これはメディアが何であってもいえることで、紙メディアも人心を惑わすために良く使われた時期がある。大本営発表を伝える大新聞もその例外ではなかった。
テレビの時代になってアメリカの文化的な影響を受けやすくなったと感じたカナダの人々は、メディアリテラシーということをいろいろ考えるようになって、伝達される内容を丸ごと信じるのではなく、その情報が発信されるまでのカラクリを含めて内容を理解するという方向になった。
これはマスコミの内容が偏向しているとか云々ではなく、メディアによる情報発信にはいかなる時も、意図しようとしまいと、完全ニュートラルなものとはならないことを言っていて、そのためには「真の報道をしろ」とか「公平を期するように」とか「真実を隠すな」とか言っても無駄で、むしろカウンターオピニオンが出せるように担保しなければならないことになる。
学問の世界では論文の審査という場があるので、わけの判らないことは書いても通用せず、事実と意見とは区別されなければならないし、事実の方は論拠・根拠を示さなければならないので、その人が何に基づいているかそういう考えにいたったのかも推測できる。したがって自然とフィルタリングがされて、メディアの権威というものが成り立ち易い。
しかし新聞などの短い記事ではそのような情報は省略されているので、新聞社や筆者を見て判断するとか、曖昧なものとなってしまう。カウンターオピニオンもバランスよく取り上げて、何が真実らしいのかを新聞社の編集デスクは演出することになる。そのさじ加減にメディアの権威がかかっているようになる。
さらにテレビではもっと短い、あるいは断片的な情報になるので、単なるセンセーションが独り歩きしやすくなる。テレビでやっていたというだけでは信用はおけない。NHKの一部のモノ以外はほとんどメディアの権威はないのではないか。
ネットの場合はどうだろうか? くだらない記事でも長々書いてあるとか、間違った記事もいっぱいあるように、学問のようなフィルタリングが効かないので、読むのが無駄、エントロピーが増大、ということが避けられない。まあ、うっとおしそうなものはクリックしなければいいだけの話なのだが、果たしてこういう状況の元でも、見ている人々の間にメディアリテラシーが根付くのかどうかが不安になる。
従来の学問やマスコミに接している場合は、メディアのヒエラルヒーのようなものがあって、学問では不確かなことは言わない、新聞雑誌では検証されていない新たな現象も情報提供される、テレビは面白そうなものはとりあえず飛びつく、というようなことを人々がわかっているので、STAP細胞云々という場合でも、各メディアの表現の温度差が理解できるはずだ。
しかし、新聞はとらない、テレビはない、当然難しい本や専門誌も読まない人で、ネットの断片的な情報だけを見ているなら、メディアによる表現の差というものが理解されないし、したがって情報はメディアそのものの成り立ちの影響を免れないこともわからなくなるのではないだろうか?