投稿日: Sep 05, 2015 1:25:20 AM
クリエイティブの反対語は模倣だろうか?むしろクリエイティブでない状況というのは自分の中からアイディアが湧いてこないことであって、行き詰まりとか煮詰まった状態であろう。その結果として、無理に仕事をすると、先にあるものの改竄に手を出すことになるのだろう。過去に模倣をした人でも自分の内部から何かが湧いてきた時にはオリジナルな仕事をするだろうから、あの人は模倣、あの人はオリジナル、というような分け方はふさわしくない。
あるいは自分の名前が出ないで、大した報酬もなく、クライアントもオリジナリティは求めていないケースもあるので、身過ぎ世過ぎでは過去からあるもののアレンジをしていくらか頂戴するということがあっても、自分の名前の出る仕事はそれらとは区別していることもあろう。できればクリエイターとしてとるべき態度は、イマジネーションが湧きもしない仕事には手をださないことである。
日本ではあまり一般的ではないようだが、周囲が模倣に対して厳しいと、無理やりクリエイティブの仕事をするには、ドラッグに手を出すとかしてでも、何らか自分の中にイメージを浮かばせるようになる傾向がある。あるいはバカ騒ぎとか、ご法度な体験をするように走る人も居る。でも商業的にはそれでやっていけるとしても、こういう方法でしかクリエイティブが出来ないのなら、やはりその人はもう創造の源が枯渇しているとしか言いようがない。
こういった世俗的な刺激ではなく、宗教とか精神世界に自分の創造の源を重ね合わせる人も居る。自分がクリスチャンになってわかったことといえば、欧米の多くの作品がテーマを聖書の中から見つけていることで、聖書はいくらパクっても誰も文句はいわないし、非難もされないし、またテーマは無尽蔵にある。おそらく最古のメソポタミア文明とともにあった古い話からローマ時代までの人の営みの(あるいは人の失敗の)あらゆる面が書かれているからである。普遍的な精神世界という立脚点はモノの見方を変えるようだ。
現実問題として欧米や日本のような成熟社会では、天井感・煮詰まり感が社会に充満しているのだが、東南アジアやアフリカをみると、これからの社会の発展とか変容の可能性の方が強く感じられ、同時に我々の社会が今日まで辿ってきた道をふりかえるような気分になる。これは文明社会の現象ではあるが、その中の期待と失望の繰り返しは、おそらくメソポタミアからローマまでの人の営みと重なっていて、そういうことに思いを馳せると目の前の天井感というのは吹き飛んでしまう。
今ではネットで海外の映像が刺激になる。メキシコのサーカスの暮らし、ミス・チベットのコンテスト、などなど、思わず引き込まれてしまうものがあった。こういうものは無限にあるのだが、それらはなんらか創造の源に関連しているように思える。同様に月刊 NATIONAL GIOGRAPHIC などを見ていると、多様な暮らし方であるようで、一方では地球上どこでも、いつの時代でも、共通したものというのが感じられ、日本の中で感じられるタガがはずれたような気がするものである。