和徳城 (わとくじょう)
所在地 青森県弘前市和徳町210 2014.8.3
和徳城 (わとくじょう)
所在地 青森県弘前市和徳町210 2014.8.3
南側の橋
和徳稲荷神社鳥居
けの汁・和徳稲荷神社
拝殿裏・土塁
和徳城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 弘前城の東約1.2㎞に位置する和徳稲荷神社(表記番地)が和徳城の中心と云われ、南側市道から参道がある[マップコード71 073 645*88]。
駐車スペースは少ないが、稲荷神社 拝殿裏に土塁が認められる(地図)。
神社を挟んで南と北に川が流れており、堀の役目を果たしたと思われる。
大浦為信に攻め込まれた和徳城の兵士が落城前に食べた、又は、大浦為信側の野戦食とされる「けの汁」発祥地の看板がある。
【歴史】 弘和年間(1381~84年)、藤崎城主安東氏の庶流安倍氏が築城したといわれている(「和徳城主考」)。
文安二年(1445年)南部氏に攻められ、清原氏の子孫とされる家臣、小山内氏の内通によって落城した。以後、小山内氏は南部氏に従い和徳城の城主となった。
天文十二年(1543年)、大浦政信が和徳城主小山内永春と戦って討死にした。元亀二年(1571年)五月五日、近隣の石川城が大浦為信の奇襲よって落とされた。それに勢いづいた大浦勢が森岡信元約250人、小笠原信清約150人、為信本隊約500人で三方から和徳城に攻め寄せた。
小山内讃岐守は、一族譜代と共に約50人で出撃し、十二矢又五郎に討たれ、和徳城の城兵約140人と出撃した部隊は一人残らず討ち死にし、和徳城は落城した。
また、讃岐守の父永春も援軍として駆けつけたが、形勢不利と見て、親類田舎館家の居城田舎館城に引き上げる途中、小笠原信清隊に討たれた。
その後、和徳城は為信によって配下の森岡信元に与えられた。慶長十六年(1611年)弘前城が完成した頃には、自然に廃城の状態となったものと思われる。