中野城 (なかのじょう)
所在地 山形県山形市中野506 2015.6.11
中野城 (なかのじょう)
所在地 山形県山形市中野506 2015.6.11
北御門跡碑
大郷小学校・ 説明板・城趾碑
説明板
城趾碑
須川
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 山形市立大郷小学校(表記番地)南側の道路に面して「中野城の由来」説明板が建てられ、少し中に入った所に「史蹟中野城址」(昭和12年)の石碑が建てられている(地図)。
またグランド北100m、県道275号線より70m南に行った小川の所に「中野城北御門跡」のステンレス製碑が建てられている[マップコード62 186 478*83](地図)。
遺構は堀形の一部のみで、楯・北口・中小路・楯坂・袋町・御倉前・築坪山・七日市場・的場・大手窪・馬場宿・馬洗場などの地名が残っている。大郷小学校は本丸の西部に位置している。
【歴史】 応永年間(1394~1428年)中頃、山形城の支城として三代最上満直の次男満基が築城した連郭式の平城である。
本丸は東西約340m、南北約250m、面積約73,000㎡の広さで、二の丸を含めると171,500㎡で、内堀は巾6~10mで高さ2mの土塁を巡らし、二の丸に当たる南西部には外堀、東北部には寺院を配置していた。
山形3代最上満直の次男満基が中野氏を称し初代となった。2代はその長子満氏で7代山形城主を務め、山形・中野両知行地を治めた。
3代はその長子義淳で8代山形城主を務め、山形・中野両知行地を治めた。4代は義淳の次男義建が務めた。
兄義定は9代山形城主を務めた。5代は義建の長子義清で、山形10代最上義守の父であった。6代は義守の次男義時が務めた。
義時は兄義光との家督争いから不和となり、更に天正三年(1575年)義時方の義光呪詛一件が露見し、義光方の夜襲に遇い中野城や寺院は灰燼に帰したという。義時は切腹し、その子備中は仙台へ逃れ、中野氏は滅亡した。
中野領は最上義光の支配となり、重臣を輪番で中野城に配置し、中野氏の旧臣は最上氏の家臣団に編入された。
元和八年(1622年)最上氏の改易後、廃城となり破却された。『大郷郷土研究会説明板』より。