亀ヶ崎城 (かめがさきじょう) (東禅寺城)(とうぜんじじょう)
所在地 山形県酒田市亀ヶ崎1‐3‐60 2015.6.13
亀ヶ崎城 (かめがさきじょう) (東禅寺城)(とうぜんじじょう)
所在地 山形県酒田市亀ヶ崎1‐3‐60 2015.6.13
案内板
酒田東高等学校
酒田東高等学校の西側土塁
西側土塁
北側土塁
円通寺山門
亀ヶ崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県立酒田東高等学校(表記番地)敷地となり[マップコード90 851 670*66] 、西側に約160m、北側に約100mにわたって二の丸の土塁(地図)が残されている。
グランドが本丸で、校舎の建つ二の丸と東西に並び、全体を内堀で囲み、外側に家臣屋敷を配置し、その外側に外堀を巡らせていた。
円通寺(酒田市吉田伊勢塚101)山門として搦め手門が移築保存されている(門前の道路は狭い)。
【歴史】 文明十年(1478年)武藤氏が築いた東禅寺城が始まりで、城主には武藤氏一族が配され東禅寺氏を名乗った。
天正十六年(1588年)越後上杉勢が庄内に攻め入り、落城以後、上杉氏の家臣が東禅寺城主として酒田を統治した。
慶長六年(1601年)関ヶ原の戦いで東軍に付いた山形の最上氏が城を包囲し、激戦の末、酒田の町は戦火で焼失、城主志駄義秀は降伏し庄内は最上氏の領地となった。その2年後、酒田浜に巨大な亀が上陸すると、最上義光はこれを吉兆と喜び東禅寺城を亀ヶ崎城と改称させた。
元和八年(1622年)最上氏が改易された後、譜代大名の酒井忠勝が庄内藩主となり、鶴ヶ岡城を居城としたが、亀ヶ崎城も存続を許され、江戸時代を通じて城代を置き酒田を支配した。
明治になると、一時民政局が置かれ酒田県庁となったが、合併で山形県が成立すると、城は解体された。