喜連川城 (きつれがわじょう) (倉ケ崎城・大蔵ヶ崎城・喜連川陣屋)
所在地 栃木県さくら市喜連川4420‐1 2014.4.10
喜連川城 (きつれがわじょう) (倉ケ崎城・大蔵ヶ崎城・喜連川陣屋)
所在地 栃木県さくら市喜連川4420‐1 2014.4.10
登城ルート
南東遠景・空堀と郭
復元大手門
お丸山公園登り口
1、2郭(奥)
1、2郭(右)・空堀・雨情橋
3郭空堀
喜連川城 1郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 「さくら市役所喜連川庁舎」(表記番地)の敷地が陣屋跡で、大手門が復元され、西に比高約50mの「お丸山公園」入口がある。
登ってゆくと1郭跡に着き、北西方向に空堀を隔てて2郭、さらに空堀を隔てて3郭と続き、空堀の橋を渡ると物産センターや温泉施設、49.5mの喜連川スカイタワーなどのある4郭跡の広場に出る。
2011年3月11日に起きた東日本大震災による被災で敷地内に700mに渡る大規模な亀裂が生じたほか、公園内の各種施設が損壊したため、周辺への避難勧告が出され、お丸山公園への立ち入りも禁止された。移動施設シャトルエレベーターも休止中である。
【歴史】 喜連川城は、宇都宮氏一族の塩谷氏が城を構えた事から始まった。
戦国時代に入ると、塩谷氏は宇都宮氏から離反と帰参を繰り返し、又一族の内紛が続発して衰退していった。
天正十八年(1590年)小田原征伐の際、塩谷氏は小田原へ参陣しなかった為に改易された。
小田原征伐後、名族である足利氏の断絶を惜しんだ豊臣秀吉は、足利氏姫を小弓公方家頼純の子である足利国朝に娶わせ(国朝の姉嶋子が秀吉の側室で、取り成したとされる)、喜連川3千5百石を与えた。
国朝の弟頼氏が二代城主となり町役場の位置に館を建てた。更に関ヶ原の戦い後、徳川家康から千石を加増されている。
喜連川藩内は、かつての小弓公方方・古河公方方の対立などがあり、正保四年(1647年)には喜連川騒動が発生した。しかし、江戸時代を通じて喜連川氏の支配は続いた。
明治三年(1870年)、廃藩置県に先立って喜連川藩は封土を新政府に奉還し、喜連川城は廃城となった。
館は明治九年に焼失し、大手門は平成三年(1991年)に復元された。