相内館 (あいないだて) (花見館・一夜堀館)
所在地 青森県三戸郡南部町相内荒屋敷 2013.8.13 2016.6.6
相内館 (あいないだて) (花見館・一夜堀館)
所在地 青森県三戸郡南部町相内荒屋敷 2013.8.13 2016.6.6
登城ルート
相内観音堂
堀跡
登り口・案内板
花見館跡碑・土塁・ 神明宮
神明宮
相内館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道4号線北の民家(相内下在所33)西より北に行くとすぐ、相内観音堂(地図)があり、由来看板が建てられている。
その北約150mの台地に相内館跡があり、南端に登り口がある[マップコード412 623 870*21]。
「相内農村公園」となって整備され、神明社が建てられている。西側に「花見館跡」の碑が建てられ、土塁が残っている。また南側の民家の間に堀跡が残る。
【歴史】 南部光行は治承四年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して功を挙げ、甲斐国南部牧(現在の山梨県南部町)を与えられた。このとき、南部姓を称したという。
文治五年(1189年)、奥州藤原泰衡追討の平泉の合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部郡などを与えられた。
南部家初代南部光行の「糠部入部説」によれば、建久二年(1191年)十二月二十八日に主従73人が奥州糠部郡八戸浦に到着した直後に宿泊する人家が無かったため、馬淵川をさかのぼり、三戸の相内にきて観音堂で一泊したが、手狭なため付近の豪農宅の居宅を借上げ、村民の協力を得て一夜のうちに堀を巡らせたと伝えられており、一夜堀館とも言われていた。
翌、建久三年(1193年)の春、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築き、次男で世子の三郎実光(さねみつ)をここに留めて、光行は鎌倉に帰ったとされる。