八森城 (はちもりじょう) (矢島城) (市の史跡)
所在地 秋田県由利本荘市矢島町城内八森6 2016.8.6
八森城 (はちもりじょう) (矢島城) (市の史跡)
所在地 秋田県由利本荘市矢島町城内八森6 2016.8.6
八森城址碑・説明板
大手橋
水堀
矢島神社
藩学日新堂跡
八森城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 矢島小学校(表記番地)敷地となっており、西側に水堀が現存し大手橋が架けられている[マップコード408 211 253*28] 。また右手に説明板、「八森城址」の石碑が建てられている。小学校の東の台地上には矢島神社が建てられている。
西側の広い空き地に「藩学 日新堂」の標柱が建てられている。
昭和五十四年(1979年)11月22日、矢島町の史跡に指定された。
【歴史】 由利十二頭の雄大井義久は、応仁元年(1467年)信州大井之庄(佐久市)から下って矢島の領主となり、八森の台地に居城を築いた。4代満安は矢島五郎と称し、天正四年(1576年)院内山根城主仁賀保挙久と数度戦っている。このころ満安は八森城を捨て、新荘館に移った。
文禄元年(1592年)由利諸頭総攻めを受け荒倉館に敗走し、西馬音内の舅小野寺茂道のもとに逃れ、後、自刃して果てた。
慶長七年(1602年)由利一郡は最上出羽守義光(山形城主)の領有となり、その部将楯岡豊前守満茂は、同十五年(1610年)本荘に尾崎城を築いて居城とし、弟長門守満広を矢島3千石に分知し八森城に置いた。
元和八年(1622年)主家最上氏の改易により、楯岡長門守もまた矢島を去った。
元和九年(1623年)由利十二頭の一人打越左近光隆は、常陸国行方郡新宮から再び由利に帰り、矢島3千石を領して八森城に入った。
寛永十二年(1635年)2代光久に子がなく打越家は絶えた。
寛永十七年(1640年)讃岐高松城主17万1千8百石生駒壱岐守高俊は故あって家禄を没収され、堪忍料として出羽矢島八森城で1万石を賜る身となった。
万治二年(1659年)2代高清は、弟俊明に2千石を与えて伊勢居地生駒家を興させたが、家格は万石大名をもって遇せられた。
慶応四年(1868年)奥羽戊辰戦争に際し、いち早く官軍陣営に参じ、七月二十八日には庄内軍四番大隊新徴組による鳥海山頂越えの奇襲を受け、防戦の甲斐もなく城を自焼したのち、仙北地方の野戦に歴戦した。
明治二年(1869年)藩主親敬は、矢島藩知事に任じられ、廃藩置県の後は学校用地となった。