尻八館 (しりはちだて) (尻八城・志利幌館) (シリポロチャシ)
最寄地 青森県青森市六枚橋91 2016.6.7
尻八館 (しりはちだて) (尻八城・志利幌館) (シリポロチャシ)
最寄地 青森県青森市六枚橋91 2016.6.7
由来板
登城ルート(緑線は車道)
登り口にある 顕徳記念碑・案内図
陣場
二の丸跡・石碑・由来板
堀切
食い違い土橋
本丸跡
堀切・土門
尻八館本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【案内・感想】 国道280号線「内真部蓬田バイパス」の「クボタ農業機械」の看板のある店舗の交差点を左折する。
1.5㎞西へ行き北海道新幹線高架を潜り、200m行くと「尻八館跡」の標識があり、橋を渡って表記番地の前を北に道なりに900m行くと溜池横に駐車場が用意されている[マップコード594 060 080*65](地図)。横に案内図が建てられている。
約780mの遊歩道が設けられている。溜池の右に登り口があり、登ると間もなく「陣場」があり「城山公園」の石碑が建てられている。
尾根道の中間に「狭間」があり、堀道が見え急坂となり、平坦地がありその先に「二の丸」(地図)がある。
標高168mの平坦地となった二の丸跡に「尻八城址」(昭和49年)石碑、由来板が建てられている。
二ノ丸より一旦下り、堀切を数条越え二重空堀の食い違い土橋より再び登ると本丸跡である。標高189.5mの山頂に「本丸」の看板が建てられている。
本丸の先にも堀切があり、「自然遊歩道終点」、「土門」の標識がある。
【歴史】 古いアイヌのチャシを土台として、築かれた中世の城である。寛喜二年(1230年)安東氏一族が、湖潟の擂鉢山に尻八館を築いた。
貞永元年(1232年)安倍三郎成季が尻八館で、治領代頭役に任命された。
正安二年(1300年)安東孫次郎祐季が城主となった。後に秋田の土崎湊城主に転じた。
明徳四年(1393年)安東四郎道貞が尻八城主となった。道貞は本家の貞季(愛季)の4男で、地名の湖潟を姓として、湖潟四郎道貞と称した。
応永十九年(1412年)七月一日、道貞が没した。戒名は飛鳥院殿道行夫祥大居士位。
応永三十二年(1425年)道貞の長男・重季が東岳の鉢巻館より尻八城に移り、湖潟四郎重季と名乗った。南部義政の娘・里子姫を妻とし、その後政季が生まれた。
永享七年(1435年)六月に南部義政に攻められ、落城した。このときに政季が生け捕りにされたが、南部氏の血を引いているため、八戸にて育てられ、成人の後に田名部の旧安東家の知行を継いだ。『現地由来文』より。