関宿城 (せきやどじょう)
所在地 千葉県野田市関宿三軒家143‐4 2013.9.21 2016.11.26
関宿城 (せきやどじょう)
所在地 千葉県野田市関宿三軒家143‐4 2013.9.21 2016.11.26
説明板
関宿城博物館入り口
模擬三階櫓
展示された 蛇籠
本丸跡公園
本丸跡・関宿城趾の石碑
関宿城趾の石碑
関宿城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 利根川と江戸川の分流するその内側に位置し、利根川水系の水運の要衝にある。
博物館が目立ち、ついそちらに足が向くが、江戸川左岸堤防の南にひっそりと本丸跡一部が残っている。
江戸川改修工事で、今では堤防の遥か下になり、東の水田に比べて少し高くなっているが、往時は洪水に見舞われていたのかもしれない。
【案内】 城跡には1995年コンクリート造の江戸城富士見櫓を参考に模擬三階櫓「千葉県立関宿城博物館」(表記番地・入館料200円・9時~16時30分月曜休館)が建てられている[マップコード45 349 484*37]。
館内には関宿藩の関連史料、利根川水運お舟、河川改修で堤防に使用された蛇籠などが展示されている。
駐車場南端に河川改修で使用された水路浚渫機と浚渫船が展示されている。そこから江戸川左岸堤防道路を南に200mほど歩くと、左手の下方に本丸跡の公園が見える。
堤防を下って行くと本丸一部が公園となっており、説明板、「関宿城趾」の石碑が建てられ、石碑裏面に歴代城主の年表が刻まれて入る。
遺構は本丸の一部が残り、約2/3は明治以降何回となく繰り返された利根川の改修により堤防の下に埋もれてしまった。
往時の城の大きさは、本丸、二の丸、三の丸部分だけで約6千坪あったと云われている。
【歴史】 長禄元年(1457年)古河公方家臣、梁田(やなだ)満助が下総国関宿に築城した。その後、2代持助(水海城主)、3代成助、4代高助、と続いた。
永禄元年(1558年)古河公方・足利義氏が梁田晴助を古河城と交換する形で入城させた。
永禄八年(1565年)~天正二年(1574年)北条氏康・氏政・氏照父子が、上杉謙信・佐竹義重の援助を受けた梁田晴助の守る関宿城を、三度に渡り攻撃し、最終的には北条氏がこれを制し、北関東進出の拠点とした。
天正十八年(1590年)小田原征伐後、久松松平康元が2万石で入城し関宿藩を興した。
以後久松松平家二代、能見松平家一代、小笠原家二代、北条家一代と続き、正保元年(1644年)牧野信成が1万7千石で入った。
正保四年(1647年)信成は病気の為石戸に隠居し、代わってその次男・牧野親成が入った。親成は承応三年(1654年)河内国へ加増転封された。
その後、板倉家三代が城主となり、寛文九年(1669年)久世広之が5万石で入封した。
寛文十一年(1671年)天守が破損したため、江戸城富士見櫓を模して御三階櫓が建築された。その後久世家一代、牧野家二代、久世家七代と代わり、明治元年(1868年)最後の城主久世広業が入った。
明治二年(1870年)外曲輪を焼失した。明治四年(1871年)廃城となり、明治八年(1875年)民間に払い下げられ、破却された。