胆沢城 (いさわじょう・いさわのき) (国の史跡)
所在地 岩手県奥州市水沢区佐倉河字渋田 2012.10.5 2021.5.24
胆沢城 (いさわじょう・いさわのき) (国の史跡)
所在地 岩手県奥州市水沢区佐倉河字渋田 2012.10.5 2021.5.24
城跡碑
政庁南門跡
政庁正殿跡
南の外郭内濠
南大路・外郭南門・築地塀
胆沢城政庁跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 北上川の西、胆沢川の南の平坦地に築かれていた広大な古代の城で、歴史公園となっている。
政庁は一辺90mの土塁上に築地塀で囲われ、政庁南門、正殿、東西に脇殿があった。
最近、政庁南門から外郭南門の間に巾約15mの道路や、濠、外郭南門の築地塀が復元されていた。
【案内】 国道4号線の同バイパス高架下より県道270号線を北に約1.2km行った右側に「胆沢城跡」碑が建てられ、駐車場がある[マップコード108 046 078*26]。
北側に政庁南門跡、政庁正殿跡、東脇殿跡がある。
正殿右の農道を北に約450m歩くと八幡神社の通りに出、何も無いが外郭北門跡がある(地図)。
城跡碑の所から南に南大路が伸びており、外郭南門や土塀、濠が復元されている。
【歴史】 延暦二十一年(802年)坂上田村麻呂により造られ、後三年役(1083~87年)のあたりまで180年にわたり鎮守府として機能したと思われる。
802年一月九日に田村麻呂が造営のため派遣され、建設途中の四月十五日に蝦夷の指導者阿弖流為(アテルイ)の降伏を上奏している。
新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が、規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。
しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで弘仁三年(812年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。
九世紀初めに鎮守府が、国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。
『日本後紀』の大同三年(808年)七月四日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。
弘仁六年(815年)からは、兵士400人健士300人計700人で守備を行った。鎮守府八幡宮は北上川に胆沢川が合流する南岸(胆沢城跡の600m北)に建っている。
大正十一年(1922年)国の史跡に指定された。