寒河江城 (さがえじょう)
所在地 山形県寒河江市丸内1‐3‐8 2015.6.12
寒河江城 (さがえじょう)
所在地 山形県寒河江市丸内1‐3‐8 2015.6.12
本丸跡碑
二の丸跡碑
城址碑・城墟碑・説明板
説明板
寒河江城墟碑
澄江寺山門
寒河江城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 市立寒河江小学校(表記番地)の東門横に「寒河江城本丸跡」の石碑、西の正門横に「寒河江城二の丸跡」の石碑が建てられている。
また同校正門の北に道路に面して池があり、「寒河江城址」の石碑、「寒河江城墟碑」の石碑、説明板が建てられている。
澄江寺(寒河江市本町3‐12‐3)山門に寒河江城三の丸の辰巳門が移築されている。
【構造】 この時の規模は、本丸が東西110m、南北180m、二の丸が東西250m、南北330m、三の丸が東西400m南北550mで、濠の内回りには土塁が築かれていた。濠幅は広いところで十二間あり、本丸には2つ・二の丸には3つ・三の丸には5つの門が存在した。さらに三の丸濠の東側と西側に川を巡らせ堀を補っている。二の丸・三の丸には重臣の屋敷を配し、二の丸の東北隅(鬼門)には祈祷寺として真言宗惣持寺を、三の丸東北隅には薬師堂を配置した。現在も残る七日町(寒河江市七日町)、十日市町(寒河江市南町十日市場)などは寒河江城を中心として城下町が形成された名残である。
【歴史】 大江広元の嫡男親広は承久三年(1221年)承久の乱において後鳥羽上皇側に付き、敗れると寒河江荘に潜居したという。
貞永元年(1232年)御成敗式目が制定され鎌倉幕府の勘気が解かれると寒河江荘内楯(現寒河江市丸内)に館を建てたという。
築城年代は南北朝末期から室町時代初期にかけてであり、当初は方形単郭の平城であった。寒河江城を城として整備したのは寒河江大江氏として初めて寒河江氏を名乗った寒河江八代時氏とされる。二の丸・三の丸が築造され、天文三年(1534年)の『寒河江城古絵図』によれば三重の堀を持つ輪郭式平城となった。
永禄三年(1560年)最上義守・義光に攻められたが撃退した。天正二年(1574年)最上氏の内訌である天正最上の乱に巻き込まれた寒河江氏は、天童氏・白鳥氏・蔵増氏・野辺沢氏、さらには同族の白岩氏・溝延氏・左沢氏により攻められ、本丸を残して攻め崩されてしまった。
天正十二年(1584年)寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると当初最上義光の直轄地であったが、文禄年間(1592~96年)嫡男最上義康に与えられた。
慶長五年年(1600年)の慶長出羽合戦では城主義康が伊達氏への救援要請や米沢からの上杉軍主力との対決のため留守にし、長崎中山氏が守るが庄内上杉軍によって攻め落とされた(『上泉泰綱九月十八日書状』)。
一方、直江兼続別働隊が白鷹から八沼城を落とし左沢に進出した後、山野辺で本隊と合流している。九月二十九日関ヶ原の敗報に触れた本隊は十月一日撤退を開始し、寒河江城の庄内勢も引き上げた(『最上義光十月朔日書状』)。
その後慶長七年(1602年)頃から弟家親が城主となり、慶長十四~十五年(1609~10年)頃家親が山形城に移ると、旧寒河江氏家臣の寒河江肥前が2万七千石で在城した。
慶長十九年(1614年)最上義光が病死し寒河江肥前が殉死すると最上氏蔵入り地となった(この後寒河江肥前の子は南館(山形市)七千石となった)。
元和八年(1622年)に最上氏が改易になると鳥 居氏の預かりとなるが、元和九年(1623年)から翌寛永元年(1624年)にかけて本丸を残して堀を埋め、土塁を崩した。
享保八年(1723年)の古地図(『寒河江本郷六ヶ村絵図』)には本丸の堀や土塁が描かれていることを確認することができる。