清久氏館 (きよくしやかた)
所在地 埼玉県久喜市上清久673 2020.7.25
清久氏館 (きよくしやかた)
所在地 埼玉県久喜市上清久673 2020.7.25
雷電神社由来
雷電神社
宝篋印塔の残欠
清久氏館跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 久喜市の微高地にある常徳院や雷電神社の境内となっている。
遺構は見られないが、常徳院本堂の左手の住職の墓の一角に清久氏のものとされる宝篋印塔の残欠が安置されている。
【案内】 常徳院の参詣駐車場が利用できる[マップコード45 242 803*03]。
常徳院の掲示板に清久氏館の説明文が掲示されている。
また、雷電神社の由来板に清久氏館の説明文が載っている。
【歴史】 平安時代から南北朝時代までの約170年間、在地領主・清久氏が館を構えていたとされる。
清久氏は平将門の乱を平定した藤原秀郷の後裔・太田氏を祖とする大河戸氏の庶流で、下野の小山氏・下総の下河辺氏とは同族にあたる。
大河戸御厨〈松伏・吉川・三郷・八潮〉を治めた大河行方(重行)の長子・太郎広行が大河戸氏を継ぎ、次郎秀行は清久氏〈久喜〉を、三郎行元は高柳氏〈栗橋〉を、四郎行平は葛浜氏〈加須〉を、それぞれ分地された。
治承五年(1181年)大河戸4兄弟は三浦介義澄に伴われて、源頼朝に拝謁した。清久秀行は頼朝の2度の上洛に隋従するなど近習として名を遺し、子孫には承久の乱(1221年)の宇治橋の合戦で活躍した清久左衛門尉秀綱、丹波国私市荘(福知山市)を恩賞として与えられた清久小次郎胤行の名がみられる。
『太平記』には、中先代の乱(1335年)で北条氏の従い奮戦した清久山城守、足利尊氏に仕えた清久左衛門次郎泰行が登場する。
その後、阿波国に本拠を移したとされ『阿波國古城諸将記』によると、天正十年(1582年)中富川の戦いで十河存保に従って、長宗我部元親に敗れた清久三之丞、その嫡子・知恵島城主の知恵島源次兵衛重綱の名がみえる。『常徳院説明文』より。