丸山城 (まるやまじょう) (丸森城)
最寄地 宮城県伊具郡丸森町渕ノ上9 2016.6.4
丸山城 (まるやまじょう) (丸森城)
最寄地 宮城県伊具郡丸森町渕ノ上9 2016.6.4
三ノ丸跡
二ノ丸跡の切岸
空堀・二ノ丸跡
本丸跡
土橋・空堀・石垣
愛宕社・稙宗の墓・説明板
丸山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 阿武隈川右岸の比高約50mの丘陵にある。国道113号線舘矢間バイパスより南に行くと入口(地図)があり、表記番地の手前に「丸山城三ノ丸跡」の標柱が建てられている。その西に登ると、駐車場が用意されている[マップコード332 243 795*63]。
登ってゆくと右の高台に二の丸跡があり、本丸との間に空堀が残っている。二の丸の南には水道施設が設けられ、東側は曲輪が残っている。
本丸跡は草が刈られ、碑が建てられている。西端に空堀、土橋がありその先の出丸に愛宕社が祀られ、伊達稙宗の墓 説明板が建てられている。
愛宕社の裏より下ると、曲輪があり先端が展望所となっている。国道113号線舘矢間バイパスが望める。また南東約3㎞に金山城がある。
【歴史】 天文十七年(1548年)、嫡男・伊達晴宗との天分の乱に敗れた伊達稙宗(たねむね)は、晴宗に家督を譲って隠居することになった。
この時、隠居領として伊具郡東南部と宇多郡北部が宛われ、稙宗は丸森に隠居城を構えた。
ところが、永禄八年(1565年)に稙宗が死去すると、隠居後の稙宗の世話をしていた長女の嫁ぎ先、相馬氏が領有権を主張して伊具・宇多両郡に進駐し、丸森城も相馬氏に接収され、元亀元年(1570年)には家臣の門間大和守を城主として配置した。
これに対して晴宗の子・伊達輝宗が、小斎矢の目に陣を敷き、稙宗隠居領の奪還に乗り出したが、相馬勢の堅い守りに阻まれて果たせず、以後丸森城をめぐる相馬・伊達間の合戦が、金山、小斎の各地で幾度となく繰り広げられた。
天正十一年(1583年)五月十七日、輝宗はついに丸森城を攻め落とし、黒木宗俊を城主とした。
天正十七年(1589年)に伊達政宗が駒ヶ嶺城を攻略すると宗俊は駒ヶ嶺城主へ異動になり、代わって高野壱岐守親兼が丸森城主となった。
慶長三年(1598年)に親兼が病没すると、子の光兼は年少のため要衝の丸森を任せるのは不安であるとして、高野氏は刈田郡平沢城に移され、丸森城には大條(おおえだ)薩摩守実頼が入った。しかし、慶長六年(1601年)、実頼は新たに鳥屋館を築いて移ったため、丸山城(丸森城)は廃城となった。