南酒出城 (みなみさかいでじょう)
所在地 茨城県那珂市南酒出462 2016.2.27
南酒出城 (みなみさかいでじょう)
所在地 茨城県那珂市南酒出462 2016.2.27
蒼龍寺入口・説明板
配置図
2郭
土橋・主郭土塁
主郭2郭間空堀
主郭・土塁
水の手・井戸跡
南酒出城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道62号線に面した「市立学校給食センター」北に「南 城跡入口」の道標があり、そこより東に行った、蒼龍寺(表記番地)南方の杉林の中に主郭がある。蒼龍寺の駐車場が利用できる[マップコード47 524 318*16]。
南に行くと2郭があり、西側に屈曲した土塁、空堀、虎口があり、その西の3郭は宅地となっている。
引き返して、東側に2郭の土塁、空堀がよく残り、土橋がある。虎口を入ると主郭があり、土塁がコの字形に残っている。空堀は北面にも伸び、屈曲し横矢掛かりとなっている。東に1mほど低く水の手があり、井戸跡が残っている。
2郭主郭の北の杉林が4郭跡である。また、蒼龍寺駐車場・墓地が5郭跡となっている。
【歴史】 佐都西郡酒出郷は平安時代末期には佐竹氏の所領であったが、治承四年(1180年)源頼朝が佐竹秀義を討伐した後、奥七郡、太田・額田とともに収公された。
秀義は文治五年(1189年)頼朝の奥州征討に参陣し御家人となり、次男義茂、三男助義は夫々南酒出氏、北酒出氏を名乗った。
承久三年(1221年)承久の乱の宇治川の戦いで、南酒出氏は戦功を挙げ、その後多くの支族を分立させたが、戦国時代後半にいたりその名跡は佐竹一門の東家が受け継いだ。
現在残されている南酒出城跡は内宿集落より東に偏っており、南酒出氏の城ではなく、天正末の額田城を攻撃するため佐竹氏が設けた付城・向城であったと考えられる。
天正十七年(1589年)江戸重通は佐竹氏の支援を得て額田小野崎昭通と戦ったが和睦した。
豊臣秀吉の天下統一後の天正十九年(1591年)、佐竹氏は額田城を攻撃して落城させ、昭通は伊達氏を頼って落ち延びた。
佐竹秀義―義茂(南酒出氏)-義行-義俊-義遠(田谷氏)-義頼(森戸氏)-義長-義興(白鳥氏)-義氏(町田氏)・・・義忠(酒出氏)
佐竹秀義―助義(北酒出氏) 『那珂市歴史研究会説明板』より。