安倍館遺跡 (厨川城・厨川柵)(くりやがわのさく)
最寄地 岩手県盛岡市安倍館町14 2016.6.5
安倍館遺跡 (厨川城・厨川柵)(くりやがわのさく)
最寄地 岩手県盛岡市安倍館町14 2016.6.5
配置図
八幡宮入口・空堀
本丸中館間空堀
中館南館間空堀
厨川柵古跡碑
厨川柵 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 北上川右岸の台地にあり、県道220号線より東に行った厨川八幡宮(表記番地)の建つ一帯が本丸跡である。県道との間に空堀が残り、説明板と碑が建てられている[マップコード81 795 104*21] 。
南に稲荷神社の建つ中館(安倍館町13)、南館(安倍館町7)と連なり、夫々の館の間に空堀が残っている。南館の入口に「厨川柵古跡」の石碑が建てられている。
本丸跡の北に北館(安倍館町15)、外館(安倍館町17)、勾当館と連なり、夫々の館の間に空堀が残っている。館跡は住宅地となり、踏査は憚れる。
【構造】 厨川柵は、平安時代の奥六郡のうちの岩手郡に存在した安倍氏の柵の一つで、その範囲は現在の通称「館坂」以西、盛岡市天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られていた。
現在の天昌寺(盛岡市天昌寺町6-16)を中心とする里館遺跡がその中核であったと推定され、里館遺跡が「厨川柵」、北東約800mにある安倍館遺跡(盛岡市安倍館町)が「嫗戸柵(うばとのさく)」として、一連の柵を形成したと考えられていた。
昭和五十八年度(1983年度)以後の発掘調査では、里館遺跡も安倍館遺跡も、鎌倉時代以後の工藤氏の城館跡であることが明らかとなった。
【歴史】 厨川柵は安倍頼時の次男安倍貞任が拠点とし、「厨川次郎」を名乗った。
前九年合戦(前九年の役)において源頼義らとの最終決戦場となり、安倍氏の勢力はここで滅んだ。
その後、宗任、家任、則任は降伏して九州へ流刑に処され、重任は殺された。この合戦で斬首された藤原経清は安倍頼時の娘婿であり、経清の長子清衡は母とともに清原氏に入り成長し、後三年の役の後、平泉を開府し奥州藤原氏の祖となった。
安倍氏滅亡後、奥六郡は清原氏の所領となり、さらに安倍氏の血を引く奥州藤原氏の支配下となった。
文治五年(1189年)源頼朝が奥州藤原氏を討ち、奥州を平定した。頼朝は父祖による安倍氏追討以来の先例にならい、厨川を訪れ、戦功のあった工藤小次郎行光を岩手郡地頭に任じた(『吾妻鏡』)。
工藤氏は、南北朝争乱の際北朝方につき、三戸南部氏により地頭職を停止され、近郊10ヵ村を領知するに至った。
一方、厨川(栗谷川)氏は南北朝期以後も有力氏族との婚姻を重ね、最終的には南部家の家臣に組み込まれていった。
天正二十年(1592年)、「諸城破却令」により厨川城は廃城された。
現在、安倍館遺跡に見られる濠跡は、この「厨川(栗谷川)城」の遺構であり、工藤氏が統治した時代のものと考えられている。