花園城 (はなぞのじょう) (藤田城)
最寄地 埼玉県大里郡寄居町末野1686 2015.1.24 2017.11.18
花園城 (はなぞのじょう) (藤田城)
最寄地 埼玉県大里郡寄居町末野1686 2015.1.24 2017.11.18
登城ルート(緑は3郭)
神社右の登り口
竪堀上部
主郭と2郭間の堀切(主郭より)
主郭
主郭・城趾碑
主郭西の横堀
2郭・土塁
2郭と3郭間の堀切
3郭桝形虎口
花園城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高90m】
【感想】 荒川左岸(北)の標高200mの山頂にあり、3つの郭と附属曲輪より構成された連郭式の山城となっている。
竪堀や各曲輪間の堀切や横堀などよく残っている。また主郭南側に石積が残っている。北西約500mの山頂には花園御岳城がある。
【案内】 藤田善導寺(表記番地)に駐車できる[マップコード150 741 076*37] 。秩父鉄道に沿って西に約230m行き、北に行くと諏訪神社があり、拝殿左に登り口がある(地図)。
西に登っていくと、竪堀に出る。竪堀の東を登るといくつかの曲輪があり、石積が残る。右に堀道を行くと3郭の桝形虎口に出る。
3郭は狭い。西に深い堀切があり、低い土塁の残る2郭がある。その西に深い堀切があり、比高90mの山頂に主郭があり、「花園城趾」の石碑(裏に由来文)が建てられている。主郭の西に横堀が残っている。
昭和四十二年(1967年)寄居町の指定史跡となった。
【歴史】 『城趾碑文』には以下のように記されている。
「当城址は標高二〇八米中世期の連郭式縄張りによる丘陵城郭の典型的山城で、築城は室町末十五世紀後半と推定される詰の城である。往昔、武州榛沢郡藤田郷領主の本城で、別名を藤田城という。
抑花園城主の系譜は、皇統二十代敏達帝の代、小野妹子十三代横山義季弟猪俣時資四代の孫にて武蔵七党中始祖藤田五郎政行が平安末久寿二年(1155年)始めて当郷を領有し、以来累世亙十八代嫡流相続し、戦国時代迄約四百年間、北武蔵に武威を振い在城す。
関東管領山内上杉憲政旗下○○○属し家老にて、榛沢・幡羅・男衾三郡を領す。右衛門佐泰邦・邦房等は天文十五年(1546年)河越夜戦後、時勢を考え北条氏康と和睦し親族と成る。永禄初期迄種々葛藤あり、為に武蔵藤田の一族忽ち滅して、藤田氏継承の鉢形城主安房守氏邦の支城となれり。氏邦治世三十年、天正十八年(1590年)小田原の役に鉢形城と前後して落ち以後廃城となった。」
以上で、一部判読できない箇所があったが、要約すると以下のようである。
平安時代末、久寿二年(1155年)武蔵七党の一つ猪俣党の猪俣時資の4代の孫・藤田五郎政行が始めて当郷を領有し、以来18代にわたって続いた。
戦国時代は山内上杉氏に属していたが、天文十五年(1546年)河越夜戦後、山内上杉氏に代わって北条氏が勢力を伸ばすと、藤田右衛門佐泰邦・邦房等は北条氏康と和睦し氏邦を養子に迎え親族と成り、藤田氏は衰えた。
永禄十一年(1568年)頃、北条安房守氏邦は鉢形城を本拠とし藤田氏の天神山城、花園城はその支城となった。
天正十八年(1590年)小田原の役において、鉢形城と前後して落ち以後廃城となった。