国府台城 (こうのだいじょう)
所在地 千葉県市川市国府台3‐9 2014.1.26
国府台城 (こうのだいじょう)
所在地 千葉県市川市国府台3‐9 2014.1.26
里見公園
里見公園・石垣
市川市最高所の標柱
お花見ひろば
里見諸将士供養塔
夜泣き石
羅漢の井
国府台城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 江戸川の東岸の20~30mの高台にあり、「里見公園」(表記番地)として整備されている。江戸川に面した西に駐車場がある[マップコード6 573 302*72](地図)。対岸にスカイツリーが望める。
公園の北に石垣があり、文政十二年(1829年)11月に建立された「里見諸士群亡塚」「里見諸将群霊墓」の供養塔、年代は不詳だが、石井辰五郎という人によって建てられた「里見広次公廟・里見先祖代々」の供養塔、説明板、「夜泣き石」がある。
堀や土塁が随所にある。また、句碑「来歴のやうに一本冬の川」が建てられている。木造の「紫煙草舎」が保存され、公園の南の堀切(道路)の横に「羅漢の井」がある。
【歴史】 市川城(国府台城と別に在ったとも)は、享徳の乱の初期に発生した千葉氏の内紛の際に、生き残った宗家千葉実胤・里胤自胤兄弟が籠城したが、康正二年(1456年)に陥落した(市川合戦)。
その後、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌が文明十年(1478年)十二月に武蔵千葉氏を継承した千葉自胤を援けて下総国境根原(現在の柏市酒井根付近)での合戦を前に、国府台の地に仮陣を築いたことに始まる。
この際に城地として相応しいと見立て、翌年に臼井城にいた下総千葉氏の千葉孝胤を攻めた際、道灌の弟太田資忠らが、この地に城を築いたと記録に残る。
国府台城は交通の要所であるが故に後北条氏、千葉氏、高城氏と里見氏、太田氏、上杉氏らの度重なる争奪戦が繰り返され、城もまた堅固な城郭として整備された。
天文七年(1538年)の足利義明・里見義堯・真里谷信応軍と北条氏綱・氏康軍との第一次合戦(里見義堯は「義明戦死」の情報を手にするや、結局一度も交戦することなく戦場を離脱、小弓軍は崩壊した)が起きた。
第一次合戦後、国府台は千葉氏の重臣小金城主高城胤吉の所領になった。永禄六年(1563年)から翌七年、里見義堯・義弘軍と北条氏康・綱成軍との第二次合戦(里見氏重臣正木信茂は戦死)が起きた。
永禄六年(1563年)の暮れ、北条氏康の配下の江戸城守将太田康資が主君への不満から同族の太田資正を通じて上杉謙信への寝返りを図って失敗し、資正のもとへ逃れた。
謙信から資正・康資救出を依頼された里見義弘は翌、永禄七年(1564年)一月四日、義弘軍1万2千人は国府台城に陣を構え、北条軍2万人を迎え撃った。
七日、高城胤辰(胤吉の子)ら千葉氏勢との連携作戦で里見軍を挟撃する計画で北条軍は江戸城を出たが、先陣の江戸城将遠山綱景・富永直勝は康資の離反を察知できなかった責任を感じる余り、本隊の北条綱成隊よりも先行して江戸川矢切の渡し付近を渡って国府台(市川市)を攻撃し、里見軍の反撃にあっった。
遠山と富永は戦死し、また、遠山綱景の娘婿だった舎人城主(北条軍64城配下・足立区)の舎人源太左衛門経忠も戦死した。(康資と胤辰も同じ遠山綱景の娘姉妹の婿で身内であった。 舎人経忠に嫁いだ娘は勇丸を生んだが、経忠の戦死後、大道寺政繁と再婚し勇丸は政繁の養子となり大道寺隼人直英を名乗った)。
この勝利に気をよくした里見義弘は出陣が正月早々であったことを配慮して兵士たちに酒を振舞った。八日未明、北条軍は寝こみを襲い、里見軍は大混乱の内に敗北した。里見広次、正木内膳らを始め里見軍は、5千名の戦死者を出した。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐後、後北条氏に代わって江戸に入府した徳川家康によって廃城にされた。江戸を見下ろす場所にあったからと言われている。
享保十二年(1727年)に徳川吉宗によって、関宿からこの地に曹洞宗安国山總寧寺が移され、明治十八年(1885年)には陸軍教導団病院が設置された。現在は国立国際医療研究センター国府台病院となっている。