東別府館 (ひがしべっぷやかた) (別府城) (県の史跡)
所在地 埼玉県熊谷市東別府778 2015.12.25
東別府館 (ひがしべっぷやかた) (別府城) (県の史跡)
所在地 埼玉県熊谷市東別府778 2015.12.25
説明板
史蹟東別府舘址
東別府神社
南東土塁
西側空堀・土塁
北側空堀・土塁
東別府館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 東別府神社(表記番地)のある東西約95m南北約75mの敷地が館跡である[マップコード34 071 079*71]。南辺の鳥居付近を残して、他は土塁・空堀がよく残っている。
南側入口付近に「史蹟東別府舘址」の石碑、説明板が建てられている。その西に「埼玉県指定史跡別府城跡」の説明文石碑が建てられている。拝殿の西に「別府城址碑」の大きな石碑が建てられている。
入口は東と西の中央にもあり、北側の土塁は2m以上、堀幅は3m程となっている。
昭和十六年(1941年)3月31日、埼玉県の史跡に指定された。
西方約600mの「安楽寺」(熊谷市西別府2044)に「別府氏墓」がある。西別府館は、安楽寺の西約400mの住宅の中の畑地にある。
説明板最終行に「・・・、この東別府城も廃城になってしまった。」とあり、東別府城をタイトルにしていたが、西別府館に対する観点から石碑の通り東別府館に改正した(2021.8.15)。
【歴史】 成田太夫助隆(高)の次男・別府次郎行隆が、平安時代ここに城を構えた。その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。
東別府家はその後11代目の尾張守長清まで続いたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の北条氏攻略に際し、北条方に付き敗れ家禄を失って、廃城となった。
中にある社は、行隆が藤原氏の鎮守神として奈良の春日神社を勧請したものという。