涌谷城 (わくやじょう) (涌谷要害)
所在地 宮城県遠田郡涌谷町涌谷下町3-2 2012.10.5 2016.8.5
涌谷城 (わくやじょう) (涌谷要害)
所在地 宮城県遠田郡涌谷町涌谷下町3-2 2012.10.5 2016.8.5
復興三重天守・太鼓堂
復興三重天守
太鼓堂
涌谷神社石段
涌谷神社
中学校との間の空堀
涌谷城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 江合川に沿った県道173号線より「資料館駐車場」の案内標識に従って登ると、駐車場が用意されている[マップコード105 451 122*23] 。
石垣の高台に二の丸があり隅櫓(太鼓堂)が現存し、横に復興三重天守櫓が資料館(表記番地)として建てられている。
平成二十三年(2011年)3月11日の東北大地震で亀裂が入り閉館中であった。
二 の丸跡は桜の名所の公園となっており、「蠍座の半身がまだ海の中 風子」「陰に生まる麥尊けれ青山河」などの句碑が建てられている。
北西に行くと朱の橋の架かった池があり、石段を登った本丸跡に涌谷神社が建てられ、「伊達安芸宗重公胸像」が鎮座している。神社の裏と涌谷中学校の間に落葉で埋まった空堀がある。
【歴史】 大崎氏の家臣・涌谷氏の城であったが、豊臣秀吉の天下統一後、木村氏を経て、天正十九年(1591年)に伊達氏の家臣亘理重宗が亘理城から涌谷城に転封となった。
重宗、その子定宗により城郭を整備され、のちに定宗は伊達を名乗ることを許された(涌谷伊達氏)。
江戸時代中期に要害になった(伊達21要害の一つ)。
4代伊達宗重が後継者問題で船岡城主原田宗輔と対立し、寛文十一年(1671年)三月二十七日ついに殺害されてしまう(伊達騒動)。