山根城 (やまねじょう) (毛呂城) (もろじょう)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷317 2016.11.20
山根城 (やまねじょう) (毛呂城) (もろじょう)
最寄地 埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷317 2016.11.20
山根城跡の碑
毛呂氏の供養塔
山根城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 八高線踏切横にひっそりと石碑が建てられているのみで、いつ頃築かれたのか不明である。
南約1㎞に毛呂氏館跡がある。
【案内】 県道30号線(旧道)より東に行った妙玄寺(表記番地)に毛呂氏の供養塔がある。
また、南東に接して山根城跡があり、妙玄寺前の道路を東に50mほど行ったJR八高線踏切横に城跡碑が建てられている[マップコード91 382 879*67](地図)。遺構は消滅し畑、宅地となっている。
『新編武蔵風土記稿』に「毛呂氏陣屋跡 所の字を「堀の内」といえり、今陸田となる。九反九畝十六歩(約9868㎡)の地なり」とある。土塁や堀の遺構は今では分からなくなったが、「堀ノ内」の地名が残っている。
【歴史】 「毛呂土佐守安顯季(あきすえ)陣屋跡」ともいわれる毛呂城(山根城)跡の北西に接する妙玄寺は、天文二年(1533年)に毛呂顯繁夫人が創建した(従来は毛呂顯季夫人説が一般的だったが、現在では顯繁夫人=顯季の母の創建が有力となっている)といわれ曹洞宗長栄寺末に位置付けられている。
戦国末期、毛呂秋重は小田原北条氏に従い、武蔵・相模各地で戦った。天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐の際、秋重以下一門は小田原の支城八王子城の守備に任じられた。
四月から攻防が始まり、六月には前田・上杉連合軍の強襲を受け、ついに落城し毛呂氏一門の多くが討死した。
やがて小田原城も開城となり、四百余年に亘った毛呂氏は滅び、残された妻子は他村に移るやむなきに至った。