宍戸城 (ししどじょう) (宍戸陣屋)
所在地 茨城県笠間市平町192 2016.2.27
宍戸城 (ししどじょう) (宍戸陣屋)
所在地 茨城県笠間市平町192 2016.2.27
本丸跡・土塁
本丸跡・土塁
土塁
移築陣屋表門
宍戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道16号線「宍戸小学校前」交差点より北に50mほど行き、左折(直進)して約180m行くと、本丸土塁上に末廣稲荷神社(表記番地)、「宍戸城址土塁」碑が建てられている[マップコード188 020 631*16]。
「旧陣屋コミュニティセンター」の東側に低い土塁の残る本丸跡がある。また南のL字形の土塁(地図)がある。
県道30号線に面した民家(笠間市土師669)に宍戸陣屋の表門が移築されている。
【歴史】 小田城八田知家の四男家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、宍戸氏を称し、建仁三年(1203年)築城した。
元弘三年(1333年)宍戸知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立荘に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。
この家系が毛利元就の長女五龍局を正室に迎えて一門となった安芸宍戸氏で、江戸時代は一門筆頭として長州藩家老となっている。
宍戸氏は当初小田氏に従っていたが、佐竹氏の勢力が拡大し、小田氏が衰退すると佐竹氏の配下になった。
天正十八年(1590年)小田原征伐に参陣した佐竹氏は、秀吉より常陸大半の領有権を安堵された。
この後、文禄三年(1594年)佐竹氏は江戸氏の水戸城を攻め、その際宍戸義綱は江戸氏に与し、佐竹氏と戦い討死した。
義綱の子義長は鹿島へ逃亡、宍戸宗家は佐竹氏と親密な関係にあった義利が継ぎ、同年文禄四年(1595年)海老ヶ島城へ転封となった。
義利が没すると宍戸義長が家督を継いだが、関ヶ原合戦後の慶長七年(1602年)九月、佐竹氏は出羽国秋田へ転封となった。
同年、代わって出羽国湊城より、秋田(安東)実李が五万石に減封され宍戸城に移された。この実季によって近世宍戸城が築かれたものと考えられている。
秋田氏は正保二年(1645年)秋田俊季のとき、陸奥国三春城へ5万5千石で転封となった。
天和二年(1682年)水戸藩主・徳川頼房の7男松平頼雄が一万石を与えられて諸侯に列し、宍戸城を陣屋として支配した。
以後、松平氏が代々続き、元治元年(1864年)9代頼徳の時、天狗党の乱の鎮圧に失敗し、藩主自ら幕府より責任を問われて切腹を言いわたされ、廃藩となった。
その後、幕府の代官支配で明治維新を迎えるが、慶応四年(1868年)朝廷のとりなしで再度立藩することとなった。