松岡城 (まつおかじょう) (竜子山城・手綱城 )
所在地 茨城県高萩市下手綱47 2014.4.10 2016.2.21
松岡城 (まつおかじょう) (竜子山城・手綱城 )
所在地 茨城県高萩市下手綱47 2014.4.10 2016.2.21
登城ルート
三の丸・復元堀
三の丸跡・松岡小学校
御殿曲輪跡・井戸
堀切
腰郭跡
主郭跡
松岡城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【案内・感想】 高萩市立松岡小学校の敷地が三の丸跡であり、校門の前に城跡看板がある。また校門の前方に石畳の「お屋敷通り」があり、雰囲気のある屋敷が並んでいる。
小学校の西にはアプローチ広場(公園)となり、堀が復元され、駐車場・トイレが用意されている[マップコード100 550 211*15]。小学校の裏手に丹生神社(表記番地)があり、その北に堀が残る。
城跡は比高約50mの龍子山にあり、西側に登り口(地図)がある。竹林の中の道(中央が沢になっている)を登るとすぐ右に井戸が残り、その先に二の丸跡(御殿跡)(地図)の広い平坦地がある。
井戸前の道を登ってゆくと、堀切があり、その上段に広い2郭がある(隅に井戸があり転落に注意)。さらに登ると、2段になった腰郭があり、上り詰めると、虎口の先に主郭がある。主郭の南側に土塁が残り、藪化した杉林となっている。
【歴史】 室町時代、1420年頃、この地の領主であった大塚氏により築かれたと考えられる。当初は山城であり、龍子山城と呼ばれ、山麓に居館が設けられていた。
慶長七年(1602年)、角館城より松岡の地に四万石で入封した戸沢政盛は、龍子山城の麓に城郭を整備して平山城とし、名を松岡城とした(1606年完成)。
元和八年(1622年)、戸沢政盛が出羽新庄藩(鮭延城)に転封されると、松岡は水戸藩の所領となった。正保三年(1646年)、水戸藩の付家老・中山信政に松岡城が与えられた。中山氏は宝永四年(1707年)に常陸太田に移り、松岡城は空城になった。
享和三年(1803年)、中山信敬は再び松岡城に戻り、城郭や城下町を整備した。
明治元年(1868年)、中山氏は正式に諸侯として認められ松岡藩主となった。明治四年(1871年)松岡藩は松岡県となり中山氏は県知事となった。同年水戸県、笠間県などと合併し茨城県となった。
松岡城に天守や櫓はなく、陣屋程度の規模であったといわれる。竜子山に本丸を置き、麓に(土居と呼ばれる)二の丸御殿や家臣の住居があり、三の丸に役所、台所、家臣の住まいが軒を連ねていたといわれる。