種市城 (たねいちじょう)
最寄地 岩手県九戸郡洋野町種市第57地割109 2016.6.5
種市城 (たねいちじょう)
最寄地 岩手県九戸郡洋野町種市第57地割109 2016.6.5
登城ルート
登り口・標柱
東曲輪
東曲輪西の空堀
2郭・(奥が主郭切岸)
主郭跡
主郭南側の切岸
東長寺
説明板
八幡宮
種市城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高50m】
【山城案内・感想】 東長寺(表記番地)より県道20号線を軽米方面に約600m行き、「下大沢7の橋」東詰より分かれた旧道を100mほど南にゆくと、左手山側に「種市城跡」の標柱が建てられている[マップコード 296 781 017*60 ](地図)。路肩に駐車できる。
沢の右側を200mほど南へ行き、右に曲がって踏み跡をたどると、東側郭の下に着く。東側郭と2郭の間に空堀がよく残っている。2郭の西に3mほど高く主郭がある。
標高193m比高50mの最高所の主郭は東西30m南北50mほどの規模である。主郭の南側は切岸となり、広い南側曲輪に連なっている。それぞれの郭はL字形に連なっている。
【平城案内・感想】 県道20号線に面した東長寺(表記番地)南に「種市城跡」の由来説明看板があり、境内に由来を記した石碑が建てられている[マップコード296 781 715*77] (地図)。
戦国時代の城で、種市氏が居住したといわれ、居館のあった平城と詰の山城がある。
平城は当時の種市の城内集落で川尻川の南にある東西約200m南北約100mの高台にあり、現在集落となっている。
「神楽屋敷」「的場」「馬場屋敷」などの地名が残り八幡宮、熊野三社大明神、城内郵便局などがある。館の東側から集落内に通じる坂道は、館坂と呼ばれ八戸へ通じる街道の起点であった。
【歴史】 種市氏は一戸南部氏の分流とも、工藤氏の末裔ともいわれ、天正十九年(1591年)九戸政実の乱に際し、種市伝右衛門が九戸城籠城に加わったが、当主の種市中務(なかつかさ)は南部信直側に与し、18騎・鉄砲3・弓3で城攻めに参陣した。
天正二十年(1592年)豊臣秀吉の命により南部領の48城館の内、12城を残し他は破却された。その際の「諸城破却書上」には「糠部郡之内 種市 山城破 久慈孫三郎持分」とあり、種市城は廃城にされた。
中務の子・光徳も信直から種市村・蛇口村等六百石を賜り、慶長五年(1600年)の和賀氏が立て籠った岩崎攻めに南部利直に従って18人・槍2・弓2・鉄砲2で出陣した。
その後南部重直の時、種市孫三郎に罪があり、禄を没収され浪人となり、慶安二年(1649年)病死した。