雉岡城 (きじおかじょう) (八幡山城) (県の史跡)
所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446 2013.11.18
雉岡城 (きじおかじょう) (八幡山城) (県の史跡)
所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446 2013.11.18
説明板
本丸・土塁・説明板
堀・土塁
本丸跡
塙保己一記念館
本丸北空堀
雉岡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 本丸跡は公園となっており、南東入口に駐車場があり城跡碑、説明板が建てられている[マップコード20 075 683*46]。本丸脇に「塙保己一記念館」(表記番地)がある。空堀、土塁がよく残っている。
本丸の西、二の郭跡には児玉中学校が建つ。中学生の一団が、堀の上の土塁に沿ってランニングしていた。三の郭跡には児玉高等学校が建つ。県の史跡に指定されている。
【歴史】 山内上杉氏の居城であったが、地形が狭いので、平井城に移り、雉岡城は、家臣の夏目豊後守貞基に守備をさせた。
『新編武蔵風土記稿』によれば、定基の子息である定盛が二代城主になったとされる。
永禄年間には北条氏邦に攻略され鉢形城の属城となったが、天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めの際、前田利家軍に攻められ落城した。
その後、同年八月家康の関東入部後、松平清宗そして家清が1万石で居城したが、慶長六年(1601年)三河国吉田城に転封され、廃城となった。