檜山城 (ひやまじょう) (霧山城・堀内城) (国の史跡)
所在地 秋田県能代市桧山霧山下 2014.8.2
檜山城 (ひやまじょう) (霧山城・堀内城) (国の史跡)
所在地 秋田県能代市桧山霧山下 2014.8.2
登城ルート(緑線は車道)
霧山天神社
堀切
三の丸櫓台
二の丸跡
本丸跡・四阿
本丸南切岸
【移築門】
霧山天神の北に位置する浄明寺(能代市檜山檜山町40)山門は檜山城より移された藥医門で、寛永十一年(1634年)建立であることが判明し、桃山様式を残す建築物として県の有形文化財に指定されている。
檜山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道7号線「桧山入口」より南に県道4号線を約4km行き、T字路を東に行った「霧山天神」鳥居南より東に車道を約300m行くと三の丸跡南に着く[マップコード223 584 238*15](地図)。途中に土橋跡、堀切がある。
三の丸跡の西端に高台となった櫓跡があり、城跡碑や秩父宮休憩記念碑が建てられている。その西の尾根続きに堀切があり、大手門があった。
その西に霧山天神が祀られている。三の丸の南に二の丸跡があり堀で隔てて東に本丸跡があり、四阿が建てられている。本丸の東から南にかけて深い切岸となっている。
標高145mの山頂から伸びる二本の尾根を中心に平坦地、堀切を設けて要害とし、蝦夷館式馬蹄形山城とも称される。本丸の北側の緩斜面にも多数の郭(曲輪)や腰郭があり、享保十三年(1728年)および天保二年(1831年)の絵図には本宮堂、鉄砲場、星場など多数の施設が記載されている。
【歴史】 檜山安東氏は檜山城を拠点に檜山郡(現山本郡)後に秋田郡(現北秋田郡、南秋田郡、河辺郡)をも支配した戦国大名であった。
永享四年(1432年)、安藤康季(やすすえ)が修築したとの記録もあるが、一般的には康正二年(1456年)、「河北千町」を領していた葛西秀清を安東政季・忠季父子が滅ぼして安東氏がここに本拠を構え、政季が築城を開始して忠季が明応四年(1495年)頃に修築を完了したとされる。
以後、尋季(ひろすえ)、舜来(きよすえ)、愛季(ちかすえ)、実季(さねすえ)まで5代にわたり檜山安東氏の居城となった。
元亀・天正(1570~92年)の頃には安東愛季・その子実季が織田信長・豊臣秀吉の知遇を得て勢力を拡大した。
天正十七年(1589年)には安東氏の内紛により、この城で大規模な籠城戦(湊合戦)が行われた。
文禄三年(1594年)の検地では約7万石に近い知行を安堵された。
慶長三年(1598年)、実季は土崎(秋田市)の湊城に移り、檜山城は大高相模守康澄の代官地となった。
関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602年)、秋田氏と改めた安東氏は常陸宍戸城に転封となり、替わりに佐竹氏が秋田に国替えとなった。
佐竹氏は小場義成を檜山城の城代とするが、慶長十五年(1610年)には小場義成を大館(現在の大館市)に移し、替わりに佐竹義重の四男・多賀谷宣家が城代となり檜山1万石を受けた。
多賀谷氏は大規模な城の改築を行ったものの、江戸幕府の一国一城令により、元和六年(1620年)、檜山城は廃城となった。
しかし、多賀谷氏は多賀谷氏居館において代々居住し 、檜山は廃藩置県までこの地方の政治や文化の中心となった。また、この地には神社仏閣が多数現存しており、納豆が名産となっている。
昭和五十五年(1980年)3月21日、大館、また南方の備えである茶臼館、そして本城および国清寺跡が一括して国の史跡に指定され、その保存管理計画も策定されている。